2015年12月18日金曜日

大田区立郷土博物館:まちがやって来た
──大正・昭和 大田区のまちづくり




2015年10月25日〜12月13日
大田区立郷土博物館

展覧会あいさつから抜粋。

大田区は、現在71万人余の人口を数えます。しかし、明治末年から大正初期の人口は約6万人でした。農漁村の風景に満ちるこの地では、大正半ばから市街地作りが始まります。
今から約80年前の昭和7年(1932)には、荏原郡下の大森・入新井・馬込・池上・東調布・蒲田・矢口・羽田・六郷の9町村が、大東京市35区中の「大森区」「蒲田区」となり、同17年(1942)には61万人余が暮らすまちに変貌しています。
この短期間による劇的変化の背景と実態は何だったのでしょうか。今の大田区のまちの暮らしとどのように関係しているのでしょうか。

現在の大田区が人口約71万人。ということは、昭和17年と比べて、10万人程度しか増えていないことになります。ということは、戦前期に既に大田区の都市化はほぼ完了していたということになります。私の感覚では、戦後に人口が急増したのだろうと思っていましたので、けっこうびっくりです。びっくりしたので、大田区と、その周辺の人口の推移を調べてみました。ソースは『東京都統計年鑑』です。



折角ですので、現在東京23区で一番人口が多い世田谷区と、2番目に人口が多い練馬区、そして大田区の隣の品川区を一緒にプロットしてみました。

なお、展示パネルの解説と『東京都統計年鑑』の数値にはちょっと違いがありますが、そちらの出典は大田区史だそうです。

戦前期、大田区の人口は昭和19年にピークに達しており、約56.5万人です。世田谷区が同様の人口に到達したのは、戦後昭和30年代前半。練馬区は昭和55年頃のことです。グラフからは、大正期から昭和初期における大田区の急激な人口増がうかがわれます。

同じ昭和19年に世田谷区の人口は約30万人。練馬区単独のデータはないのですが、前後から推察すると10万人以下。現在23区の人口上位3つの区ですが、その都市化の歴史はずいぶんと違っていることがわかるでしょう。

昭和20年に人口が激減しているのは、戦争の影響です。徴兵、学徒動員、学童疎開などによって、このとき東京全体の人口が激減しました。戦前期の水準に回復したのは昭和30年ごろですね。戦後だけのグラフをつくると、高度成長と人口増と都市化がリンクしているように誤解されそうです。じっさい、世田谷や練馬はそうなのですから。

品川区をプロットしたのは、人口推移が大田区と似ているからです。面積が大田区の3分の1強なので絶対数は少ないのですが、グラフの動きがとてもよく似ていると思いませんか。大田区より都心に近いためか、大正期の人口増加は大田区に先行しているようです。

展覧会は、このような明治末・大正期から昭和初期の人口増の要因はなにか、その結果何が起きたのかを考察する内容でした。とても興味深かったですよ。

この人口推移に関する話は某所でも少し触れましたので、あれ、と思った方は、そういうことでご了承ください(笑)。

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