2013年9月30日月曜日
みんなで衛生的な公園にしましょう
品川区立小関公園。
通りすがりにときどきこの手の看板もチェックしていますが、
こんなにひどい絵柄を見たのは初めてです。
あまりにもあんまりなので、きれいにしてみました。
馬場のぼるっぽくてかわいい。
こっちはこんな感じで。
悪いのは人間なのにね。
2013年9月22日日曜日
The Tokyo Art Book Fair 2013
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収穫物のメモランダム。
① MEMO-GEN
大竹雅俊+大竹雄亮のご兄弟のデザイン事務所PORTさんの仕事。
☞ PORT
活版印刷の原稿用紙風一筆箋。
一行7文字なので、俳句や短歌にも。
20行140字なので、ツイッターの下書きにも。
二つに折ると、カードサイズ。
他にも、板紙に印刷したポストカード、上に大きな余白をとった絵日記タイプがありました。
井の頭線・池の上の近くに、土日限定オープンのアトリエ兼ショップ&ギャラリー「FORT by PORT」があるそうです。機会があれば訪れたい。
②『池田修三木版画集:センチメンタルの青い旗』(ナナロク社、2013)。
秋田ローカルで非常に有名だったという版画家池田修三(1922-2004)の作品集。
地元の銀行のカレンダーや通帳なども手がけ、作品は比較的安価であったことから、お祝いとしてプレゼントされることも多かったということです。全く知りませんでした。すばらしい。
編集はRe:Sの藤本智士さん。ブックデザインは名久井直子さん。
9月27日〜10月6日まで、
表参道と丸の内で作品展が開催されるとのことです。
③写真家・井村一巴さんにお会いする。
小冊子と写真絵葉書を購入。
セルフポートレートの印画紙に、安全ピンでスクラッチ。描かれるのは背中に生えた羽根であったり、宙を漂う海月であったり。ひとつひとつ、手で描いていくので、写真という複製芸術でありながらも一点もの(冊子はもちろん印刷ですが)。
井村一巴さんのお父さん井村隆さんは「カラクリン」という金属の彫刻で有名な方。
もう何年(十数年)も前、大磯町の図書館(だったか)で井村隆さんの展覧会を見て、とても印象に残っていたのですが(いまもどこかにその時のポスターがしまってあるはず)、先日、大宮のアルピーノ銀花ギャラリーを訪れたときに作品に再会! そしてひょんなことから、お嬢さんが写真家であることを知った次第です。
ギャラリー「ときの忘れもの」のサイトに掲載されている紹介文がほほえましい。かつては草間彌生さんに憧れる高校生だったのですね。
☞ イムラブログ
④ 多摩美術大学大学院美術研究科情報デザイン研究領域 メディアデザイン研究グループ
五十嵐威暢 多摩美術大学学長のTwitterでのつぶやきをモチーフにした作品の数々。ハードカバーの小さな本にしたもの、iPhoneサイズの冊子にしたもの、ポスターにしたもの……。
最もすばらしかったのは、宮島千枝さんの『呟く言葉、紡ぐ糸』。
五十嵐学長の言葉を薄紙に赤い糸で刺繍した小冊子。
「言葉を紡ぐとは、綿糸や絹糸から糸を紡ぐように、言葉を選んで文章を作ること。……呟かれる言葉はまるで糸を紡ぐかのように美しかった。もう、いっそのこと、糸で文字を紡ぎ出してはどうだろう。」
言葉を紡ぐ。
糸で紡ぐ。
詩人ですね。
オリジナル本は3万円。コピー本は300円。
見ている間も、展示テーブルの向こうでチクチク、チクチクと、新しい言葉が紡ぎ出されています。訪れる人の注目度も高し。
お願いして、できたばかりの1ページを譲ってもらいました(←聞いてみるもんだ)。
言葉が選べればもっとよかったけれども(←贅沢言うんじゃない)。
宮島千枝さんは、昨年の「タイポロジック2012」展にも出品されていました。お名前は失念していたのですが、作品は覚えています。要チェックのデザイナーさんです。
【タイポロジック2012】宮島千枝「Butterfly」。蝶の羽の柄をよく見ると…。自然の色や形からの発見。(3/4) pic.twitter.com/Gf5rl7hs
— 株式会社 竹尾 (@takeopaper) August 6, 2012
2013年9月21日土曜日
川瀬巴水と満月と
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巴水と言えば、《馬込の月》。
果たして巴水はじっさいに満月を見てこれを描いたのでしょうか。
という疑問はさておき、台風18号が去ってからしばらく空が美しい日が続いたおかげで、中秋の名月を楽しむことができました。
2013年9月17日
2013年9月18日
2013年9月19日
2013年9月20日
2013年9月21日
2013年9月18日水曜日
東京都美術館:福田美蘭展:絵の上を歩く
メモランダム。
今回の展覧会でいちばん印象的だったのは、《床に置く絵》(2000年)。額に入った西洋歴史画風の絵が床に置かれている。キャプションを見ると、上を歩いてもよいとある。でも、本当に? 念のため、看視さんに聞いてみると、どうぞどうぞ、と。で、恐る恐る絵の上を歩く。
「恐る恐る」。
この感覚はいったい何だろう。美術館のふつうの床をあるくのに、「恐る恐る」という感覚はない。しかし、床の上の絵を踏むという行為の最初の一歩に妙な勇気が必要。一歩を踏み出した後も、なにかふつうに床を歩くのとは異なる感覚。絵のテクスチャーのせいではない。そんな違和感ではない。足の裏で感じる違和感ではなく、脳で認識する違和感。
見ていると、みんな絵を迂回している。いや、自分もそう。意識しないと、その上を歩くことができない。頭の中のなにかが邪魔をする。踏んではいけないと命令する。「踏み絵を踏む」というのはこういう感覚だったか、と思う。
しかし。この感覚をもたらすのは、絵なのか、それとも額縁なのか。
たとえばですよ。しばしば、駅コンコースの床にマンションの広告が貼られていることがありますよね。みんなあの上を、何もない床のように歩いていますよね。私はあれを思い出したわけです。
たぶん、マンションの広告の代わりに名画のプリントが貼られていても、同じなのではないか。みんな何事もないかのように上を通過していくのではないか。と思ったわけです。
となると、私の感じた心理的抵抗感は、絵ではなく、絵の周囲を囲む額縁に由来しているのではないか。額縁というある種の「結界」を越えることに対する抵抗感ではないのか。
となると、絵画というものは、額縁という結界の中にあることによって、なにか特殊な価値のあるものに転換するのではないか。さらに言えば、美術館という結界の中にあることによって、絵画は価値のあるものになるのではないか。
《床に置く絵》をみて、「絵を踏むという行為」を体験して、そういうことを考えました。
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展覧会は結構楽しみにして出かけたのですが、あまり気分が高揚しませんでした。それはたぶん作家や作品のせいではなくて、「90年代以降の代表的な作品……あわせて約70点を展示」という企画のためではないかと思います。もっとまとまったシリーズ単位で作品を見たかった。名作絵画を描かれた人の視点で見るシリーズなど、同様の作品がいくつもあるから面白いのだと思います。
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作品の持つ批評性について。
今回、作品をみて、福田美蘭は社会的な問題を扱っていても、外に向けられた批評というよりも、内に向かっているように思いました。問題を提起する側ではなくて、ニュース番組などのコメンテーター的立ち位置。だからなんだ、なのですが、そのあたりに福田繁雄との違いを感じました。
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追記
《床に置く絵》の上を歩くことは出来ましたが、額縁を踏むことは出来なかったことを思い出しました。絵は踏めるのに、額縁は踏めない。絵よりも額縁に価値を置いているのか。いや、敷居は跨ぐものであって踏むものではない、ということでしょうか。面白いですね。
2013年9月17日火曜日
シルエット
あるいは切り抜き。
この手の雑誌をアマゾンで見る機会がなかったのですが、最初は何事かと思いました。切り抜き画像のリンクが外れてしまったのかと。しかし、面白いですね。出版社でこうした表紙データを用意しているのでしょうか。
ジャニーズおそるべし。
この手の雑誌をアマゾンで見る機会がなかったのですが、最初は何事かと思いました。切り抜き画像のリンクが外れてしまったのかと。しかし、面白いですね。出版社でこうした表紙データを用意しているのでしょうか。
ジャニーズおそるべし。
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