2013年8月1日木曜日

国立新美術館:アンドレアス・グルスキー展:
レンズの視覚、人間の視覚、絵画の視覚



ANDREAS GURSKY | アンドレアス・グルスキー展
2013年7月3日〈水〉〜9月16日〈月・祝〉
国立新美術館 企画展示室1E


グルスキーの作品については、次のサイトを参照。



なぜアンドレアス・グルスキーの作品は見る者に特別な印象を与えるのか。グルスキーの作品から受けた視覚的印象についてのメモランダム。

作品の技術的特徴としては、
①風景を俯瞰し、その一部を切り出している。
②カメラと被写体が平行している。
③手前にあるものも、奥に写っているものも、画面の隅々までピントが合っている。

これらを巨大なプリントによって展示してる。
もちろん例外もある。特に近年の作品は。
しかし、これらの特徴が独特の印象を作りあげてきたと思う。

ではなぜそれがグルスキーの作品に特別な印象を与えるのか。他の「写真」となにが違うのか。

彼の作品の特徴として多く指摘されているのは、③。

ふつう写真ではレンズの特性から、程度の差こそあれ、目的とした部分にピントが合い、それ以外の部分はぼやける。
私たちはそれを知識として経験として知っているので、「写真」はそういうものだと考える。しかし、グルスキーの作品はそうではない。巨大な写真のどこを見ても明瞭なデテールがある。これは私たちの写真に対する「常識」を破壊する視覚表現である。


人間の肉眼には絶対に不可能であるような、巨視的でありながらも微視的な視覚。それはまさに「神の視覚」と呼ぶにふさわしい。そこで時間はいっさいの動きをとめ、永遠性のなかで定着された一瞬の相貌を、われわれのまなざしに向けて晒しつづけるのである。

竹峰義和「〈統御された崇高〉の美学──アンドレアス・グルスキー展レビュー」


「時間はいっさいの動きをとめ、永遠性のなかで定着された一瞬の相貌」。これは多くの「写真」に共通する特徴であって、グルスキーだけのものではない。

では、「巨視的でありながらも微視的」あるいは「マクロとミクロ」、あるいは「神の視覚」という部分はどうか。

人間の眼は、対象に対して常にさまざまな側面から最適化しようとする。

人間の眼は、見ようと思った対象に、常にピントが合う。目の前の風景を眺めているとき、意識した部分にはつねにピントが合っている。
たとえば風景をスケッチしようとすると、描く対象に目が向く。そしてその対象にピントが合う。だから、目に見えるように描こうとすると、本来すべてのものにピントが合っているはずなのだ。

しかし、写真はそうではない。焦点を当てたところにのみ、ピントが合う。それ以外の部分は、手前も、奥も、ぼける。眼で見たとおりには写らないのである。

人間の眼とレンズを通した風景のもうひとつの違いは、明るさの補正である。ピント合わせと同様、カメラは対象とした部分に露出を最適化する。コントラストの強い被写体では、明るい部分に合わせると暗い部分が潰れ、暗い部分に合わせると明るい部分が飛んでしまう。ところが、人間の眼は現在見ている部分につねに最適化されるので、脳内で合成される風景は、一部が飛んでいたり、潰れていたりすることはない。

もうひとつの違いはゆがみである。カメラのレンズはその特性上、広角になればなるほど被写体が歪んでみえる。そればかりではなく、広い範囲を捉えようとすると、パースがついてしまう。もちろん、人間の眼にも、そのままではパースが付いて見えているに違いない。しかし、人間の脳は網膜に写った風景をこれまでの知識に基づいて自動的に補正する。真っ直ぐなものであったとしても、レンズを通すとゆがみが生じる。網膜にも同じように歪んで写っているかも知れない。しかし、それが真っ直ぐであるという知識があれば、その姿は脳によって自動的に補正されてしまうのだ。建物を斜めから見ていても、脳内では正面から見たものに変換されてしまうのだ。

普通の人が目の前の光景を描こうとすると、描かれるのは、脳内で補正された姿になることが多い。あらゆる部分が均等に、同様の明るさとコントラストで描かれる。それは間違っているわけではない。だって脳内にはそのように見えているのだもの。

こうして考えると、あらゆる部分に焦点が合い、真っ直ぐなモノが真っ直ぐ写っているグルスキーの作品は、神の視覚というよりも、本来の人間の視覚というに相応しいと思う。彼の作品は、人が自分の見たものを、自分の脳に写ったものを紙やカンバスに描くように作りあげられているのだ。(もっとも、神は自分に似せて人を創ったというが)

それではなぜグルスキーの作品は人々に大いなる違和感を与えるのかといえば、それは彼の作品が「写真」という体裁をとっているからだ。

100年と少しの歴史しかないにも関わらず、私たちは写真がどういうものなのかを良く知っている。写真に写るものが、人間の眼に見えるものとは異なっていることを知っている。しかし、目の前にあるグルスキーの作品は、私たちの知っている写真の特徴からかけ離れている。証券取引所や工場、北朝鮮のマスゲームなどの群衆を捉えた作品は、写真というよりも『ウォーリーを探せ』のように、すべてが隅々までクリア。すべての要素が私たちに正対している。すなわちこれはレンズの視覚ではなく人間の視覚、「絵画のように見える写真」なのだ。

私たちが「絵のような写真」といったときに思い浮かべるのは、印象派以降の絵画への類似だが、グルスキーの「写真」の絵画性は、印象派以前のもの。

絵画におけるリアリズムは、絵画の絵画的な視点の特徴を捨てて、スーパーリアリズムに到って「写真の様な」表現へとたどりついた。目指すところは「まるで写真の様ですね」。それはデテールの描写の問題だけではない。すべてにピントが合っているのではなく、すべてに露出が合っているのではない、そういう意味での写真的な特徴を絵画表現に取り入れて、絵画というフォーマットでありながらも「絵画には見えない」という点が私たちに新鮮な体験をもたらしたのだと思う。

グルスキーの作品はその逆である。「写真」のフォーマットを援用しつつ、「写真には見えない」。私たちの脳が期待する「写真」ではない。それが大いなる違和感を呼び起こす。

これは、たとえば止まったエスカレーターを歩いて上り下りするときの感覚に近い。

なぜ止まったエスカレーターはあんなに歩きにくいのだろう。それは一段一段が高い階段を上り下りするのとはまったく異なる体験だ。エスカレーターは、階段のフォーマットを取り入れた機械である。しかしそれは階段とは異なる。人を自動で運んでくれるのだ。私たちはそのことを知っている。だから、エスカレーターに乗ったとたんに、私たちの身体は自動的に運ばれることを期待して身構える。脳がそのように命令する。しかし、止まったエスカレーターでは身体のその期待が裏切られる。そこに激しい違和感が生じるのだ。

グルスキーの作品も同様である。彼の「写真」を前にして、「写真的」であることを期待した私たちの脳は裏切られる。そして、その裏切られかた、「違和感」は、作品が巨大になればなるほど大きく、強くなる。だからウェブや作品集で見るのではなく、国立新美術館に足を運んで見るべきなのだ。


| roppongi 7 | aug. 2013 |

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ここではあえて「グルスキーの写真」ではなく、「グルスキーの作品」と書いた。というのも、グルスキーは、写真を素材にしながらもそれを徹底的にデジタル処理しているからだ。それはトリミングや明るさやコントラストなどの調整にとどまらない。写っているものを消し、写ってないものを付け加える。複数の写真を組み合わせて一枚の作品に仕上げる。細部に到るまで、徹底的に作りあげられている。通常の写真では考えられないようなデテールにいたるまでのクリアさも、かっちりとした水平垂直のコンポジションも、それはデジタルによる加工処理によって実現され、それが彼独自の「写真表現」を生み出しているのだ。

日本人はなぜかphotographを「写真」、すなわち真が写っているものと訳してしまったが、多くの写真がそうである以上に、グルスキーの「写真」は作りあげられたフィクションの世界なのである。そして多くの写真とは異なり、フィクションなのは被写体以上に、その表現手法なのである。


| shinagawa stn. | aug. 2013 |

※初出に若干のリライト。

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「制作風景」の動画。
グルスキーが用いているのは、Quantel Paintboxという画像編集システムらしい。






Peter Galassi, Andreas Gursky, Museum of Modern Art, 2002.

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