2013年6月25日火曜日

隙間から見える何か。


| higashi-azabu | jun. 2013 |

備忘録。

以前から、ビルとビルの隙間から見える向こう側の風景が気になっていました。ときどきカメラを構えてみることもしています。しかし、自分の目で見た印象と、撮った写真の印象が一致しない。なぜだろう。

歩いているとき、ある瞬間だけ向こう側が見える。
ほんの少し視点がずれても、ビルの壁しか見えない。
目の端に画像が引っかかるのは一瞬。
あれ? と思って足を止めても、そのときにはもう見えない。
頭の中で映像を巻き戻してみる。
じっさいに少し戻ってみる。

つまり、私の体験、印象は、時間と空間のふたつの次元によって作りあげられているのだから、特定の場所にカメラを据えて撮影しても元の体験とはまったく別のものになってしまう。
それは例えていうならサブリミナル的ななにかなので、一瞬を固定して画像を取り出すことには意味がない。

そんなことを考えてみました。

* * *

東京タワーの足下。


| tokyo tower | may 2010 |

ついこのあいだまで、タロジロたちがいた場所が、こんなオブジェになってしまいました。


| tokyo tower | jun. 2013 |

ナサケナイ、カナシイ……。


2013年6月24日月曜日

依而如件[よつてくだんのごとし]




きらず やかずに 根本的に のんでなをるや 家傳藥

岡山市磨屋町南詰
肛門藥商會

『読売新聞』1925年(大正14年)3月23日。



家傳薬を誇るグロテスクの商標

「のんで癒る痔の薬」と銘打つて手廣く販路をひろげてゐる肛門藥商會(岡山市磨屋町四二)は登録商標に「顔は人間で身體は牛」の図に「如件」の二字を入れてゐることに依つて世に知られてゐる。
このマークの由來を探求してみると秦の始皇帝の時代にこの圖の如き奇形児の生まれたことがあつたが一週間あまりで死んでしまつたと傳へられてゐる。「件[くだん]」は卽ち牛の子でであり、證書に認める「依而如件[よつてくだんのごとし]」の意味は「言ふた事を違へぬ」と解釋されてゐるところから同商會では「効能書に嘘は言はぬ」といふ意味からこれをマークに選んだのだといふ。現在全國各地に特約店三百餘を有し、盛大に営業を續けてゐる。

『読売新聞』1930年(昭和5年)8月21日、朝刊6頁。


肛門藥商會。
会社名もシンボル・キャラクターも強烈ですね。
わたくし、この広告を見るまで、[くだん]の存在を知りませんでした。

件[くだん]については以下の文献に詳しい。
とりみき「くだんのアレ」(『事件の地平線』筑摩書房、1998年所収)。
「くだん、ミノタウロス、牛妖伝説」(『幻想文学』56号、1999年)。

* * *

以下、「肛門藥商會」の広告。



『大阪朝日新聞』1923年(大正12年)9月11日。


上の広告は関東大震災の直後のものですが、大阪の新聞広告は平常運転。



『読売新聞』1925年(大正14年)3月23日。




『大阪朝日新聞』1925年(大正14年)7月17日。




『東京朝日新聞』1926年(大正15年)1月28日。




『東京朝日新聞』1926年(大正15年)1月28日。


切らず やかずに 事業をしつつ 呑でなをるよ 家傳藥





『読売新聞』1930年(昭和5年)9月4日。

私しや 備前の岡山生まれ ぢびゑ 病氣は 苦にはせぬ

切らず、やかずに 仕事もやめず 呑んでぢなをる此の藥



* * *

201307
大正10年、ウラジオストックで「件」が生まれた、
という記事がありましたので追加。




牛と人間の混血兒と謂れる『件』が浦鹽で産る 屠殺した牛の胎内から

【敦賀特電】浦鹽市外二番河市立屠牛場で去る二日屠殺した牝牛の胎内から半身人間半身小牛の怪男子生れ目下牛乳で飼養してゐる、毎日見物人山の如くであると

牛の畸形兒で人間に似る

混血兒杯とは絶對にない
獸疫調査所近藤技師談

右に就て獸疫調査所近藤技師は語る『人間と牛の混血兒といふやうなことは絶對に無い ただ牛には色々の畸形兒があるから一見人間に似た様なものもあるがそれは唯似てゐるといふ丈の事で決して人間の混血兒といふやうな事は無い 人間と牛との間に如何なる關係があつても絶對に混血兒は出來得ぬ』

『読売新聞』1921年(大正10年)10月15日。

2013年6月15日土曜日

多摩美術大学美術館:コドモノクニへようこそ
04:蠅取り器

家によっては30万匹もの蠅を捕獲した「蠅取りデー」。いったいどのようにしてこれほど大量の蠅を捕らえることができたのでしょうか。

『家庭便利帳』大日本聯合婦人会、昭和11年(1936年)、27頁。

蠅駆除の方法には、主に(1)蠅叩き、(2)薬剤を用いる方法、(3)蠅取り紙、(4)蠅取り器を用いる方法がありました。薬剤は、とくに蛆の駆除に用いられたようです。

蠅叩き

いちばん手軽なのが蠅叩きでしょう。
初山滋の《ハヘトリデー》に描かれたのも、ふつうの蠅叩きでした。


初山滋《ハヘトリデー》『コドモノクニ』昭和11年(1936年)9月号。

子供たちが蠅を捕るときの、基本的な装備だったようです。


小さな蠅取の戦士達は、手に手に蠅叩、ピンセット(これで蠅を挾むのだ)マツチ箱(これに蠅を入れるのだ)等の武器を持つて、家の中は勿論、塵捨場と云はず、食料品店の店先と云はず、遠征に出かけるのである。

貝島慶太郎『随筆集』昭和11年(1936年)、72~74頁。


しかし、この方法では労力の割に捕れる蠅の数は知れていたと思います。ほかにずっと効率的な蠅取りの方法がありました。

硝子製蠅取り器

昭和14年の夏、1週間で32万匹の蠅を捕まえたツヤ子夫人が用いていたのは、硝子製の蠅取り器でした。



……どこにもある硝子の蠅捕り器に水のかわりに石鹸水を入れます、蠅を寄せるのには魚の腹わたを使用します。
これを、庭の隅などに二ケ所置いておくと、たちまちのうちに眞黑くなるほど蠅が捕れます……二ケの硝子器で一日に七萬匹もの蠅が捕れます

『朝日新聞』1939年8月2日、朝刊6頁。

この硝子製蠅取り器は、各地の郷土博物館で見ることができます。これまでに、平塚市博物館、八王子市郷土博物館、昭和の暮らし博物館、上野の下町風俗資料館で見ました。


| hachioji | may 2013 |

ネットで検索すると、復刻品が作られたりもしているようです。
なんとamazonでも売っている。



硝子製はえ取り器

機械式蠅取り器

32万匹の蠅を捕らえたツヤ子夫人は、「今までトリモチ、自動式の蠅捕り器などいろいろ試みましたが、十分な成績があがりません」と述べていますが、この自動式の蠅取り器もなかなかのヒット商品だったようです。


……それから蠅取器械と云ふものがある。これはくるくる廻る機械であつて、蠅が好む食物に釣られて止まると、直ぐに奈落の底に落ちて行くので、面白いほど取れるものである。
伊藤尚賢 編『医学的秘伝百法』京橋堂書店、大正8年(1919年)、288頁。


上の文章と同じものかどうかは定かではありませんが、下の写真のような機械が用いられていました。八王子市郷土博物館の所蔵品です。


| hachioji | may 2013 |

右下部分がゼンマイ式で回転し、そこに止まった蠅が箱の中に落とされるのです。この部分には蠅が好む酢や水飴などを塗っておきます。


| hachioji | may 2013 |

この蠅取り器を製造していたのが、名古屋の尾張時計株式会社と名古屋商事株式会社です。両社とも時計製造の会社であったのは、ゼンマイ機構の製造に長けていたからでしょうか。


蠅取器は尾張時計株式會社並に名古屋商事株式會社の製造する所にして、前者は之れが專賣特許權を後者は之れが實用新案權を有す。尾張時計株式會社は大正元年斯品の發明者大阪の堀江松次郎氏より專賣特許権を継承し、翌大正二年より之れが製造を開始せるものにして、旣に十餘年の閲歴經驗を有するものなり。此の間他に之れが模造品を製作するもの各地に續出する有様なりしが、多くは同社の製品と殆ど選ぶ所なく、或は敗訴し、或は敗爭し、現在前記名古屋商事株式會社時計部が大正十年実用新案の發錄を受け之が製作に從事する外字内全く競爭者なく、最近両社の製造高合計年十數萬個、從來の各種蠅取紙、蠅捕器に代りて廣く國内の需要に應ずる外、支那、馬來半島、印度、南洋等に輸出する額亦巨萬を數ふるものあり。

『名古屋物産案内』名古屋商業会議所、大正12年11月(1923年)、103-104頁。


名古屋商事株式會社時計部が製造していたのが「村瀬式丸ロール蠅捕器」。この蠅取り器は「在來の蠅捕器に存する総ての欠陥を補ひ、蠅を捕ふるに就きては頗る妙を得、毫も他の追從を許さざる特徴を有し、最も完全なりとの定評あり」だったそうです。

下の蠅取り器の製造元は「名古屋発明株式会社」とありますが、これは果たして「名古屋商事株式会社」のことでしょうか。1915年(大正5年)の広告です。



蠅は傳染病の媒介者なり
有功一等金牌受領

最新發明
IS式自働蠅捕器(蚊捕兼用)

廻転ロール上嗜好液に誘はるる蠅は間斷なく内部暗室より捕集籠へと送られ一疋も逃れ得ず巧妙眞に驚くべき器械
贈答好適品座敷の裝飾ともなり堅牢優美理想以上の衞生器
……
製造元 名古屋發明株式會社

『東京朝日新聞』1915年5月30日、朝刊6頁。


いやいや、さすがに「座敷の装飾」にはならんでしょう(笑)。

下の広告はまた造りの異なる蠅取り器です。
この図からは、蠅を捕るしくみがわかりません。



面白いほどよくとれる
ハイトリ器
將に蠅の海に化せんとする東都よ蠅を恐れよ
夜はカトリ器


名古屋市南区新尾頭町廿七の一
製造発売元 長島商會

『東京朝日新聞』1924年(大正13年)5月9日、夕刊3頁。


この広告が掲載されたのは、大正13年5月。
関東大震災後の衛生悪化でハエが大量に発生し、その駆除が問題となっていたころ。
すなわち「將に蠅の海に化せんとする東都」に向けた広告だったわけです。

そして次が「尾張時計株式会社」の蠅取り器。
その名も「ハイトリック」



元祖專売特許
ハイトリック
天下一品

蠅を捕りませう ハイトリ器は 地球馬印に限る
この蠅取器は永久使用が出來、經濟的必要品なり、

製造元 尾張時計株式會社

『東京朝日新聞』1926年(大正15年)6月14日、朝刊7頁。


それにしても、いずれの蠅取り器も名古屋の会社の製造というところが興味深いですね。

* * *

ハエはさまざまな伝染病を媒介するということから、大正から昭和にかけてその駆除のためにさまざまな方策がとられていました。昭和11年の『コドモノクニ』に掲載された初山滋《ハヘトリデー》には、そうした社会的背景があった、という話でした。

はたして最後まで読んだ人はいるのか知らん……。

2013年6月14日金曜日

多摩美術大学美術館:コドモノクニへようこそ
03:蠅取りデーの報奨

蠅取りデーの報奨

昭和14年夏、麻布区の小塚貞義宅では32万匹の蠅を捕らえて、賞品に反物2反をもらいました。

人々の蠅取りのモチベーションを上げるために、各地の蠅取りデーにはさまざまな報奨が用意されていました。大阪・鷺洲では抽選で市電の切符や石鹸、学用品がもらえたようです。


昭和六年六月六日より廿五日まで二十日間宣傳ビラを配布し、蠅捕懸賞を催し好評を博す。卽ちツバメ印形様を標準としてマツチ箱一杯(約百疋入)を持参の者は抽籤券一枚を交付さる(蠅取紙、リボンでも可)事とし左の懸賞品を与ふ。
一等(市電貳圓バス貳冊)一本
二等(同壱冊)三本
三等(同一圓一冊)六本
四等(同五十錢同)十本
五等(同石鹸三個)八十本

右衛生デーを記念して實施した結果は、開始後日尙淺きに拘はらず、豫期以上の好成績を示し、更に等外賞品を追加提供する事とした。
等外(鉛筆又は雜記帳)貳百本
斯くて同月二十五日午後四時を以て締切り、七月二日役員立會の上抽籤を嚴正に行ひ、同發表を組合掲示板、役員方、湯屋、床屋その他に掲示し、賞品は七月六日より十一日まで引替を行ふ。

『鷺洲衛生組合二十年史』鷺洲衛生組合、昭和8年(1933年)、13-15頁。


すなわち、蠅100匹毎に抽選券が貰え、抽選結果によって1等から5等までの賞品が与えられたということです。さらに、「等外賞品」が追加提供されたということですから、抽選に外れた人でも「鉛筆又は雜記帳」が貰えたということでしょうか。

北海道・帯広では、持ち込まれた蠅を100匹3銭で買い上げたばかりか、さらに抽選で現金や蠅取りリボンが与えられました。しかも、抽選に外れてもキャラメル1個が貰えます。


一、買上單価百匹三錢也
外ニ百匹ニ付抽籤券壹枚呈ス
二、抽籤は期日ヲ定メ地元日刊新聞ニテ發表ス

壹等 一名 五圓
貳等 一名 二圓
參等 一名 一圓
四等 二十名 蠅取リボン五ケ宛
等外 キヤラメル壹個宛モレナク進呈

帶廣市聯合衛生警備隊本部

『行幸記念衛生警備隊記録誌 : 昭和11年10月』帯広市聯合衛生組合、昭和12年(1937年)、20頁。


東京での報奨品の詳細な事例は見つけていないのですが、いくつかの記述を拾ってみると……

・岡本綺堂宅では、蠅103匹で町内会からサイダー1瓶(大正14年)。
・「町内の衛生係迄持参すると、町内第一だといふので、褒美として桐のたんすを頂戴するなど」(昭和9年)。
・「荒川區三河島町東會では……一等から廿等まで賞品を贈つた」(昭和11年)。
・麻布区で、1等賞品の反物二反(昭和14年)。

このあたりは詳しく研究している人に伺いたい。

モチベーションを高めるための報奨品が豪華になると、手段と目的が入れ替わってしまうような例も見られるわけで、そうした現象に対する非難も見られます。


蠅取週間に当つては、奬勵の為、時々、懸賞をかけたりしてゐる。
懸賞に就て面白い話がある。まだ蠅取を始めて間も無い頃の賞品は、蠅一疋何厘、蚊一疋何厘と云つた具合に、一々之れに価格を附していゐた。
ところが、初めは取り方も少かつたので、其れで大した不都合は起こらなかつたが、次第に多く取る様になつて来ると、莫大な額に上つて、とてもやり切れなくなつた。何しろ、一人で、一週間に、五圓もの金額になつた事もあつた位である。これでは、月給より、蠅取賞金の方が高くなると云ふとんでもない結果になつて、驚いて、其の方法は、中止してしまつた様な事もあつた。……今はこんなのは一切止めて、タオルや石鹸の様な、万人向きのするものばかり與へてゐる。

貝島慶太郎『随筆集』昭和11年(1936年)、72~74頁。



初山滋《ハヘトリデー》『コドモノクニ』昭和11年(1936年)9月号。

報奨をもらうためには大量のハエを捕まえる必要があります。

こどもたちは蠅叩きと袋を手にして蠅を集めていたようですが、これではとても何万匹もの蠅を捕ることはできません。手を煩わさずに、効率的に蠅をとる機械もありました。

長くなるので、またまた続きます。次で最後です。


多摩美術大学美術館:コドモノクニへようこそ
02:蠅取りデーとは

蠅取りデー


初山滋《ハヘトリデー》『コドモノクニ』昭和11年(1936年)9月号。

初山滋のユーモラスな絵とテキスト。
「ハヘトリデー」すなわち「蠅取りデー」とは、どのような日だったのでしょうか。

『国立国会図書館月報』に、この絵に関する解説が掲載されていますので引用します。


「ハヘトリデー」とは、何ともユニークなタイトルであるが、実際に行われていた行事「蠅取りデー」である。蠅の根絶運動は、20世紀初頭に衛生運動の一環として、アメリカで始まった。日本では大正期に、当時流行していたコレラの媒介虫として駆除の対象となった。そのキャンペーンとして設けられたのが蠅取りデーであり、1920年[大正9年]、大阪で行われたのがわが国における最初である。東京では、関東大震災(1923年[大正12年])後の衛生状態の悪化から蠅が大発生したため、1925年[大正14年]、東京市全域で8月15日を蠅取りデーとし、一斉駆除が行われた。以後、毎年夏に開催されるようになり、町内対抗や賞品・賞金を出して競わせることもあったため、子どもも大人もこの日はまさに蠅取りにいそしむ1日であった。『岡本綺堂日記』には、1925年[大正14年]の蠅取りデーに岡本家でも103匹を捕え、町内会から賞与としてサイダー1びんをもらったという記述がある。写真1の袋を手に持ち、蠅取りに練り歩くおしゃれでユーモラスなひとこまには、「蠅取りデー」という当時のできごとが巧みに映し出されている。

福士輝美「ハヘトリデー 『コドモノクニ』が映し出す時代」『国立国会図書館月報』614号、2012年5月、4〜5頁。


(1) 日本では大正9年、大阪で最初に行われた。
(2) 関東大震災後の衛生状態悪化から蠅の大発生。
(3) 東京では大正14年8月15日に行われ、以後毎年開催。
※大正13年の新聞に「蠅取りデー」の記事あり。
(4) 町内対抗、賞品・賞金を出して競わせることもあった。

ハエが害虫という観念は現在ではあたりまえのように思いますが、病気をもたらす虫であるとされるようになったのは、20世紀になってからのことだそうです。瀬戸口明久『害虫の誕生』(ちくま新書、2009年、第三章「病気」)によれば、アメリカで「不潔なハエ」の根絶運動が展開し始めたのは1910年代。この頃、チフス、赤痢、コレラ等の病気とハエが関連づけられるようになり、大都市においてハエ駆除のキャンペーンが行われるようになったといいます。

日本の新聞もアメリカでのハエ駆除運動を伝えています。




米國 少年の蠅取戰争
▽各市の行政上に大効果

過日の本紙上に少年團が一擧して市街清潔法を米國の一市に勵行して好成績を収めた事實を記載した、今又茲に掲げるのは米國の三大市に起つた少年蠅驅除軍、之が市の衛生に尠[すく]なからぬ貢献をして居る……

▲死蠅百萬の金字塔
昨年の夏の或日大なる自動車が華盛頓[ワシントン]市の衛生局門前へ横附にされた、ヒラリと飛出したのは可愛の少女、衣摺の音輕くドクトル、モルレーの前に臆する色もなく差出したのは死蠅で充たした一箇の箱……
死蠅の數百二十五萬、之を積んだ時には累々として方五尺、高さ三尺の金字塔が出来上つた、統計表によれば其爲百萬億の黴菌が勢力を失つたとのことである、尤も之には、同地のデーリー、エツキスプレス新聞社が總指揮官となつて成績優等なる者に十弗、五弗、一弗の賞金を提供した

『朝日新聞』1912年(明治45年)6月18日、朝刊4頁。


日本でも明治末期から伝染病の媒介としてのハエの危険性が書かれるようになります。


噫彼等の一属は、人生に害毒を流すこと一にして足らず、見よ彼等は汚穢物と吾等の食物との間を往來し、貴重なる吾等の生命を支持すべき食物は、未だ其人の口に上らざるに、旣に不潔なる彼等の口と脚とを以て蹂躙せらるるのみならず、夥しき傳染病の黴菌は、先ず彼等の脚に依つて人の食膳に運ばる、思へば恐ろしき極みならずや。

木村小舟『美しき自然』嵩山房、明治41年(1908年)。


そして大正期に入ると、コレラ予防のためのハエの駆除の必要が訴えられるようになります。




●蠅を撲滅せよ
▽夏の一番厄介な奴
▽宮島醫學博士談


何處にでも居るので左程恐ろしいとは思はないが夏になつて出て來る蠅は實に恐ろしい危険千萬な代物だ
▲進んだ研究 我々の喰べ物飲物は云ふに及ばず處嫌はず飛んで來る、而も便所に這入り込んで不潔物[きたないもの]の附いた儘の脚で遠慮なく座敷に飛んで來ることは人の能く知る處だ、こんな處から傳染病の病毒を媒介する、昔昆蟲學細菌學の進歩しなかつた時代には唯蠅と云へば五月蠅ものだとばかり思つて居たに過ぎぬのだが最近科學の進歩と共に蠅の研究が進んで、そして恐ろしいことをやるものだと云ふことが判つた……

『朝日新聞』1913年(大正2年)6月3日、朝刊5頁。


そうして、大正3年(1914年)に横浜で開催された衛生展覧会では、「チフス菌のコーナーにハエの実物標本がおかれ、病原菌の媒介者としてのハエのイメージを広めていた。さらに一九二〇年[大正9年]以降は、『蠅の展覧会』が独立して開催されるようになる」(『害虫の誕生』123頁)のです。

関東大震災と蠅

関東大震災後の衛生状態悪化は、ハエ駆除運動推進の契機になりました。東京で「蠅取りデー」が行われるようになったのも、大震災の翌年です。大正13年(1924年)初めから、伝染病の流行とハエ駆除を訴える記事が見られます。

ただし、当初は東京市が予算と人夫を出しての駆除活動でした。


市内一齊に蠅退治をやる
來る二十五日頃から
傳染病は例年の三倍


東京の傳染病は腸チブスを筆頭に昨年來本年に入つて、愈猖獗を極めて居る、本年一月中腸チブス患者は七百五十二名。二月は十日迄毎日三十名の
新患者 を出して居る、この分で行けば今年は平年の約三倍位の患者卽ち一萬七千名位に達しその他の傳染病も之に準じて餘程多數に上る虞れがあるので東京市は警視廳と相談を重ねた結果徹底的に蠅の退治を行ふ事となり十五萬円の豫算で來る二月二十五日頃から各區役所で
延人員 三萬六千人の人夫を使役して一齊に蠅の蛹を退治する事となつた、これには警視廳の防疫官も出張して人夫を督勵する筈である

『東京朝日新聞』1924年(大正13年)2月18日、夕刊2頁。


15万円という予算が妥当であったかどうか。この記事がでたあとに、読者からの投稿でいくどか議論がなされています。その中には、東京市部だけで駆除しても、市外からいくらでも飛んで来るではないか、という意見もありました。

* * *

夏になると、子供たちへの啓蒙活動が検討されます。
まさに初山滋《ハヘトリデー》の背景とも言えましょう。



子供へ
蠅退治宣傳
警視廳大活動


愈蠅の全盛期が近づいて來た昨今警視廳では十五班の蠅驅除隊が市内の集團バラツクを片つ端から廻つて宣傳につとめてゐるが警視廳では此の際小供達の心に蠅の恐ろしい事を徹底させるため蠅についての作文や自由畵を作らせたらといるので學校當局とも協議して見度いといつてゐる

『東京朝日新聞』1924年(大正13年)6月20日、夕刊2頁。


6月には「蠅取りの競争」という記事が見られます。つまり、市がお金を出して駆除するのではなく、住民たちの自助を促そうというわけです。これは大きな方針転換ですね。


浅草區
蠅取りの競争

傳染病豫防に關しては各人の自覺に俟つて自家の下水掃除は自ら行ふ事とし區としては排除した汚物を取片附け消毒劑を散布してゐるが近く蠅の驅除の爲蠅取り日を定め最も成績のよい町会には褒状を与へ各町の競爭に依つて好結果を収めんと試みてゐる、患者の發生數は例年と大差ないが公園、今戶、待乳山、田中町、本願寺等のバラツクには目下豫防注射を施行中である一月以降の發生患者數は腸チブス百六十三名赤痢十四名、猩紅熱廿一名ヂフテリヤ六十六名、痘瘡二名、流腦六名バラチブス三名疫痢二十八名であるがヂフテリヤと疫痢とが他區に比して著しく多い

麻布區
蠅退治の映畫 二十二日午後七時より北日ケ窪町町會、二十三日午後七時より一本松町町會、其他續々開會せられる模様である

『東京朝日新聞』1924年(大正13年)6月21日、朝刊6頁。


大正13年の時点で、「蠅取り日を定め」「最も成績のよい町会には褒状を与へ」ていたということになります。また、別の町会では「蠅退治の映畫」上映もあったと。

また、同年8月16日付の新聞は、警視庁象潟署(浅草区)では毎月三回3の日に「蠅取りデー」を行うことに決定したと伝えています。

「ハエ取り紙」の需要も増大しました。たとえばマスキングテープmtの製造元として知られる「カモ井加工紙」は、1923年(大正12年)に岡山に創業した「ハエ取り紙」メーカーですが、売上が増大し、経営に追い風となった背景として大震災後の衛生悪化があげられています。
『粘着の技術—カモ井加工紙の87年』吉備人出版、2010年、10頁。




mt博 02


昭和2年7月20日

さて、「蠅取りデー」の記事は昭和に入ってからたびたび見ることができます。昭和2年(1927年)は、7月20日に東京市でいっせいに「はへとりデー」で行われました。



はへ取り總勘定
さすが淺草が大關格
深川では個人で五萬二十匹


二十日市内一せいに行はわれた『はへとりデー』の獲物の數(判明した分)は左の通り
◇深川扇橋署管内 富川町廿八萬七百四十五匹(個人富川町卅一飲食店沖野良亮五萬二十匹)
◇浅草象潟[さきかた]署管内 百三十二萬九千七百七十匹 一升を一萬五千匹と換算して八斗八升六合五勺
◇浅草日本堤署管内 九十二万八千六百六十二匹
……以下略……

『東京朝日新聞』1927年(昭和2年)7月22日、朝刊11頁。


個人で捕獲した最大が5万20匹!
岡本綺堂の103匹なんて、ものの数に入りませんね……。

5万匹もの蠅をどうやって数えたのかといいますと、容量での概算ですね。上の記事には「一升を一萬五千匹と換算」とありますし、少量ではマッチ箱1つ分を100匹ともしたようです。

でも、実際にひとつずつ数を数えることもあったようです。下の写真は、集められたハエの死骸を数える(!)大阪府の技師……(大正11年3月)。


(買収した三十五萬の蠅は斯くして調べられつつある)ですって。

昭和3年7月20日

この年7月20日に「蠅取りデー」が行われました。


二十日は
はへ取り
市郡一せいに


警視廳防疫課では二十日はへ取りデーを行ふ事になり市郡七十四警察署と協力してはへのぼく滅を期する事となつた
ただし郡部では澁谷、戸塚、落合野方、龜戸、大島、砂町、小松川の八ヶ町は町役場の都合で同日一緒に行ふが出來ないとごたごたを起こしてゐるので同課では極力一せいに行ふ様勤めてゐる

『東京朝日新聞』1928年(昭和3年)7月19日、夕刊2頁。


昭和4年7月20日


廿日全市に
はへ取りデー


東京市保険局では傳染病豫防対策として來る廿日例年通りの「はへ取りデー」を全市一せいに行ふ事になつた、當日は衛生課が各警察署町會と連絡して大活動をするはず又國民保険協會でも當日腸チフス豫防デーを催し、講演會、映畫會、豫防注射等で豫防宣傳を行ふ
『東京朝日新聞』1929年(昭和4年)7月18日、夕刊2頁。


この年の「蠅取りデー」の結果は以下の通り。


はへ取デーの
氣味惡い精算
捕へた總數五千四百萬匹
市内の大關は本所


毎年年中行事の一つとし行はれるはへ取デーは去る二十日市郡一せいに行われたがその精算が出來た
それによると捕らえられた東京全市のはへの數は五四、一八三、八二六匹でざつと本州の人口位の數、その内譯は
本所が一番多く一〇、八二八、〇二八匹▲麹町が一等少くて八四九、〇〇〇匹
……(郡部略)……
これを升で測つて見たら六十一石七斗八升二合に達した、これだけのはへを想像して見ると如何にも氣持ちが惡い、元來はへの數は年々減少の傾向にあるのだが今年は昨年、一昨年より多いといふ奇現象を呈してゐるがこれは一般の衛生思想が發達して出來るだけ捕ったといふ結果とも見られる、はへ捕りデーでもつとも澤山捕つた家は本郷區根津宮永町二六道正魚店でその數驚くなかれ十一萬四千三百六十四匹!

『東京朝日新聞』1929年(昭和4年)7月23日、夕刊2頁。


個人で 11万4364匹!

ものすごい数ですが、鮮魚店にこんなにたくさんのハエがいてよいのでしょうか……。しかし、10年後にはもっと大変な記録を見ることができます。

昭和10年7月20日



ハヘ取り成績
百七十六俵
最高は九萬三千匹
◇…昨年より八萬匹多い

……最高記録は荏原區大崎町の魚屋さん龜井虎太郎方の九萬三千匹で八萬以上捕まへたのが三名もゐるという例年にない好成績、防疫の元締警視廳の井口防疫課長は大喜びで——

去年より八萬二千匹許り多かつた、女や子供の手で恐るべき夏の傳染病を驅逐出來る訳だ、平常もこの調子だといいがなあ
——といつている

『朝日新聞』1935年(昭和10年)7月23日、夕刊2頁。


やはり魚屋さんはハエが多いですね。

昭和14年7月27日/蠅取り名人 驚異! 一週間に32万匹

ご覧いただいたとおり、捕獲数を競わせるという政策は見事にその目的を果たしていたようです。
昭和14年には個人での捕獲数が30万匹を超えました。


蠅取一人で卅二萬匹
去る二十七日の全市蠅取りデーの結果を二十九日午後警視廳で調べたところ総數八千五百二十一萬二千四百九匹、五十六石八斗一合と云ふ驚異的數字を示した。
これを區別にすると一位が荒川区で七百七十八萬一千六百九十三匹、……最も少いのは麹町區の六萬二百四十九匹、個人での一位は麻布區北日ケ窪三七無職小塚定吉さんの三十二萬匹で但しこれは數日かゝつて貯へたもので二位が大森區雪ケ谷三一〇養鷄業羽田三郎氏の三十萬、三位が目黑區上目黑二六八魚商出村義三氏の十五萬であつた。

『東京朝日新聞』1939年(昭和14年)7月30日、夕刊2頁。


昭和14年の「蠅取りデー」で、個人で最大の捕獲数を記録したのは、麻布区の「無職小塚定吉さん」とあります。1日ではなく、数日かかってとのことですが、32万匹という大変な数です。2位の養鶏業、3位の鮮魚店なら、蠅が多いのも想像できますが、小塚さんの家ではいったいどのようにしてこれだけの数の蠅を捕獲したのでしょうか。

8月2日、小塚さん宅に取材した記事が出ました。7月30日の記事では「無職」「小塚定吉」とありましたが、ここでは「著述業」「小塚貞義」となっています。貧しくて暇だけはある人のやったことかと思いましたら、違いました(失礼!)。住所「麻布區北日ケ窪町」は現在の六本木ヒルズのあたり。女中さんが二人いる、立派な邸宅だったそうです。


蠅取り名人
驚異!一週間に三十二萬匹
誰でもやれる祕訣

東京市の蠅取りデーで総數八千五百二十一萬二千四百九匹、五十六石八斗一合といふ□凄い數字を示しましたが、さて箇人の一位は麻布區北日ケ窪町四一著述業小塚貞義氏の三十二萬匹といふ驚異的數字でした。このやうに蠅を多數捕獲したので、蠅のうぢやうぢや居る不潔地帯かと思つて行くとこの北日ケ窪町は清潔な町、しかもそのお宅は宏道[?]な立派なお邸で門をくぐつても蠅一匹も居ないといふ有様、いさゝか面喰らひましたが、矢張り一週間に三十二萬匹もの蠅を捕つたお邸に間違ひない。ツヤ子夫人に蠅捕りの祕訣を伺ひました
◇……◆
『蠅ほどうるさい、非衛生的のものはありませんので、宅では今までトリモチ、自動式の蠅捕り器などいろいろ試みましたが、十分な成績があがりません、それでいろいろ工風して獨特の方法を考へ出したのです。どこにもある硝子の蠅捕り器に水のかわりに石鹸水を入れます、蠅を寄せるのには魚の腹わたを使用します。
これを、庭の隅などに二ケ所置いておくと、たちまちのうちに眞黑くなるほど蠅が捕れます、
蠅の死體は不潔ですし、ウジもわくので一定の消毒器の中に入れて置きます。
座敷や室内では使用しませんが戸外で蠅をみんな捕つてしまふので座敷や臺所には一匹も來ませんのでまことに淸潔です、どのお宅でもこの方法でお捕りになるやうにおすゝめします。二ケの硝子器で一日に七萬匹もの蠅が捕れます
あまりに多く捕れるので警視廳でも不思議に思つて調べに來ました
食物店などにもこの方法をすすめて居ますが、あまり澤山捕れるので店が不潔なやうにお客に思はれるの困るといつて、實行して呉れませんが、食料品店、飲食店など全部で實行してくれるといやな、うるさい蠅は根絶出來るでせうに——』
◇……◆
この邸では毎年の蠅捕りデーに必ず二十萬匹以上の蠅を捕つて警視廳に持ち込んで居るのですが今年は遂に第一等の榮冠?を得たわけ賞品の反物二反を貰つて世話役の女中さん二人に分けやうかなど処分が家庭の話題に上がつて居ます。【寫眞はその蠅捕り器とツヤ子夫人】

『東京朝日新聞』1939年(昭和14年)8月2日、朝刊6頁。

捕獲数のすさまじさもさることながら、その褒賞「反物二反」とはまた豪華な賞品ですが、こうした様々な賞品が人々のモチベーションを高めたことは間違いありません。他にはどのような賞品が用意されていたのでしょうか。

長くなりますので、またまた続きます。

2013年6月13日木曜日

多摩美術大学美術館:コドモノクニへようこそ
01:初山滋《ハヘトリデー》




絵が歌いだすワンダーランド コドモノクニへようこそ
2012年6月30日(土)~9月2日(日)
多摩美術大学美術館

“子ども達に本物を、芸術性高きものを”をモットーに大正11年に生まれた月刊絵雑誌、コドモノクニ。コドモノクニからは詩人北原白秋、野口雨情や作曲家中山晋平らによって数々の童謡の名作が生まれ、挿絵では武井武雄や岡本帰一、清水良雄、初山滋、本田庄太郎、川上四郎、深澤省三、蕗谷虹児らが活躍し、画家、文学者、作曲家によるコラボレーションでした。本展は創刊時に編集長だった鷹見久太郎の視点を読み解きながら、コドモノクニという絵雑誌のメディアが果たした役割をみていきます。


ちょうど一年前の展覧会です。

なにか書こうと思って調べ物を始めたのはいいのですが、関連して訪ねてみたかった資料館になかなか行けないまま、放置していました。先日その目的が果たせたので、ようやくアップするという次第です。

編集者・鷹見久太郎


『朝日新聞』1921年(大正10年)12月15日、朝刊3頁。

『コドモノクニ』は1922(大正11)年1月に創刊し、1944(昭和19)年3月の終刊までの23年間に287冊を刊行した月刊の絵雑誌です。大判厚手紙、オフセット5色刷、オールカラーという、当時としては非常に贅沢な体裁で、この雑誌で多くの画家、童画家たちが活躍しました。『コドモノクニ』の画家たちを取り上げた展覧会は多くありますが、編集者・鷹見久太郎(1875年~1945年)の仕事に焦点を当てたという意味で、この展覧会は新しいものだったと思います。

鷹見久太郎については、1926年(昭和元年)の読売新聞記事に詳しく書かれています。



雑誌界の人物
(三)……婦人畫報の編輯主幹
鷹見久太郎氏


茨城縣の人。明治三十二年頃早大文科を退き、一時鄕里で教鞭をとつていたが、明治三十八年矢野文雄の近事畫報社に入る。同社解散と同時にその事業を繼承した國木田獨歩の獨歩社に入社。獨歩社また解散するや鷹見氏は東京社を組織して其の事業を續けた。丁度ことしが創刊二十年。廿年一日のやうに、婦人画報のため氏は働いてきた。その雑誌報國の至誠、正さに斯界の元勲として記念さるるべきだ。齢五十有一。氏は月々の雑誌が出来上がる毎に一人の愛児を擧げたやうに喜ぶ。しかしその喜びも束の間でいつもそれに自己の理想と相容れない點のあることを發見して悶々と惱みつゞける。その惱み、廿年來のその生みの惱み、そこに『婦人畫報』の新生命が月々芽んでゆくのであった。氏は曰う……編輯の理想と販賣の現実とは曾て握手をしたことがない。理想を没した多賣主義の編集方針なら販賣に好都合だらうが、天下の婦人はそれがために堕落し、好奇と挑發にのみ打興するであらう、さらば操觚者の無責任を如何にすると[欠落]氏には流石舊水戸藩の氣槪がある。心底ではいつも浮華なジャーナリズムを排して止まぬのだ。

『読売新聞』1926年(大正15年)6月10日、朝刊4頁。


氏は月々の雑誌が出来上がる毎に一人の愛児を擧げたやうに喜ぶ」「理想を没した多賣主義の編集方針なら販賣に好都合だらうが、天下の婦人はそれがために堕落し、好奇と挑發にのみ打興するであらう」「心底ではいつも浮華なジャーナリズムを排して止まぬ」。
鷹見久太郎は、非常に理想主義的な編集方針を貫いた人物でした。しかし、残念なことに、彼自身「編輯の理想と販賣の現実とは曾て握手をしたことがない」と述べているように、彼は優れた編集者ではあっても、経営者、販売者としての才能は欠けていたようです。両者のバランスをとることができなかった。

1924(大正13)年に東京社の経営を仕切っていた島田義三が没した後、東京社は経営難に陥り、やむなく1931(昭和6)年に事業を武侠社の柳沼沢介に譲渡します。鷹見が離れたあとも東京社は続き、『コドモノクニ』は1944(昭和19)年3月に終刊に至りますが、それは経営の問題ではなく、戦争のためでした。東京社を離れた鷹見は1933(昭和8)年に子供之天地社を設立し、絵雑誌『コドモノテンチ』を創刊します。しかし、ライバル誌との競合もあり、1934年(昭和9年)には休刊してしまいました。
鷹見元本男「出版・編集サイドから見た絵雑誌『コドモノクニ』」本展図録、6〜10頁参照。


『読売新聞』1933年(昭和8年)4月12日、朝刊9頁。

「東京社」は戦後「婦人画報社」となり、1999年にアシェット社に買収された後、2011年にアシェット社がハースト社に買収され、「ハースト婦人画報社」となっています。

初山滋《ハヘトリデー》1936年

『コドモノクニ』にはすばらしい画家たちが、無数の素敵な作品を残しています。個人的な好みは、岡本帰一、初山滋、本田庄太郎、武井武雄。東山新吉(魁夷)の童画も大好きです。

東山新吉については、靖国神社の祭礼を描いた童画について触れたことがあります。


さて、展示作品のなかでもとくに印象的であった作品は、初山滋の《ハヘトリデー》(1936年/昭和11年)です。



絵はもちろんのこと、テキストも楽しい。


“ハヘトリデー”

ハヘハ ヰナイカ アア ヰタヰタ
キミノ アタマノウヘニヰタ
ヤッ パタン
アイタッタッ ニゲチャッタ、

ハヘハ ヰナイカ アア ヰタヰタ
ボクノ アタマノ ウヘニ ヰタ
ヤッ コツン!
アイタッタッ ニゲチャッタ、

ハヘトリデー ダ ハヘヲ トロ。



この素敵な絵、同じ初山滋の『たべるトンちゃん』(金蘭社、1937)を彷彿とさせます。


と思ったら、「トンちゃん」(1937)は「ハヘトリデー」(1936)の翌年の作品なのですね。


以前から知っている作品でしたが、改めて、じっくりと鑑賞できました。

ところで、この「ハヘトリデー」とはなんでしょうか。どのような日なのでしょうか。

長くなるので、続きます。

2013年6月12日水曜日

デザインハブ:未来を変えるデザイン展:
「覗く」という行為。


東京ミッドタウン・デザインハブ特別展
「未来を変えるデザイン」展
2013年5月16日(木)〜 6月11日(火)

東京ミッドタウン・デザインハブ(構成機関 : 公益財団法人日本デザイン振興会、社団法人日本グラフィックデザイナー協会、武蔵野美術大学 デザイン・ラウンジ)では、2013年5月16日(木)から6月11日(火)までの期間、東京ミッドタウン・デザインハブ特別展「未来を変えるデザイン展」を日本財団との共催により開催します。この展覧会は「2030年、様々な社会問題を企業はどう解決しているのか」という視点に立ち、各企業の取り組みを紹介するもので、19社の展示を行います。
このデザイン展では、会場全体を作品として来場者に体験させるインスタレーションで表現することにより、来場者は2030年の世界における社会課題とその課題解決に向けた各企業の対策を体験することができます。


6月8日土曜日に会場を訪れたところ、多くの若者たちで賑わっていて、ゆっくり見られなさそうでしたので再訪を期す。そして最終日11日の午後に再訪したものの、この日は12時まで。なんと間抜けなことでしょうか。

さて、企画は2013年の現在の課題と、2030年における解決の方向を示すというもの。こちらの勝手な期待だったのですが、2010年に開催された「世界を変えるデザイン展」と同様なものを考えていたのですが、まったく違いました。「世界を変えるデザイン展」がプロダクトという実体をベースにした問題解決の方法を示していたのに対して、「未来を変えるデザイン展」は、ビジネスモデル。「世界を変えるデザイン展」が現実の問題の中ですでに試行錯誤を続けているプロジェクトであるのに対して、「未来を変えるデザイン展」は17年後の企業のあり方を考えるワークショップの研究発表会。

「デザインなの?」という疑問もなくはありませんが、最近ではこのようなビジネスモデルの構想にもデザインという言葉を使うようなので、まあ、よいでしょう。でも、「デザイン」という言葉を濫用することでなにか物事を曖昧にしているような気もする今日この頃です。企業がものづくりにデザインの力を用いることには大いに賛同するのですが、「社会貢献」という言葉はどうも胡散臭くていけません。なにか企業の本質を覆い隠すために用いられているような気がするからでしょうか。気のせいかも知れませんが。

そういう印象を強く受けたのは、なんといっても今回の展覧会への参加企業の中に最近世間でブラックと指摘されている企業が含まれている所為でしょう。へえ、未来を変えると言いますが、あなたたちが描く未来は、はたして人間を幸せにする未来なんですか、と。いや、気のせいかも知れませんが。

いずれにしてもこの展覧会を深く鑑賞できたわけではないので、印象論に過ぎないことをお断りしておきます。

展示デザインを褒めます。

会場には企業ごとに枠が設けられているのですが、基本的にすべて同じコンセプトでまとめられています。展示会みたいに、自分たちのスペースを勝手に演出するわけではない。複数の企業がひとつのコンセプトの下でプロジェクトを提示するという方法は、いうほど容易な事ではないと思います。

各ブースにある円筒の上には、白いアクリルのドームが光っています。このドームには穴がふたつ開いている。ひとつの穴は2013年の現在の課題。もうひとつの穴から見えるのは、17年後の2030年。

↓の記事で会場の写真を見てください。


最初は「なんじゃこりゃ」と思いました。

穴から見えるのは少しばかりのミニチュア模型です。これ自体はほとんど何も語っていない。手間暇掛けて作って、これがここにある意味はあるのだろうか……と思いました。

ですが、しばらく時間が経ってから考えを改めました。

この展覧会が見せているのは、基本的に before と after の対比です。それも、実体のあるモノではなく、社会の構造とか、生活のスタイルといった部分です。モノはないけれども物語はある。それをどのように見せるのか。結局ここで見せているのはテキストなのです。17年後の物語を描いたテキスト。パネルのテキストを読む。基本はそれだけなのです。それを本のかたちではなく、ウエブ上ではなく、デザインハブという会場に足を運んでもらって、読んでもらう。そのためにどのような仕掛けが可能なのか。

穴から覗いてみただけではなにが言いたいのかちっとも分からない。でも、覗いてみるという能動的行動を促された私たちは、そこに見えたものが何なのか知りたくなる。知りたくなるから、テキストを読む。

穴から覗くという行為は、壁に飾られたものを「眺める」のとは違って、身体的な行動を促す。そうすると、なんとなく通過することができなくなる。覗いて見えたモノが分からないものであれば、知りたくなる。考えたくなる。そういう仕掛けなのだと。

「デザインあ展」でもこういう「覗いて見る」展示がありました。ポーラミュージアム・アネックスで開催されている「ミヤケマイ展」にも、そういう仕掛けがありました。

「覗く」。

とてもいいです。

以上です。




『世界を変えるデザイン――ものづくりには夢がある』
英治出版、2009年。

2013年6月11日火曜日

21_21:デザインあ展:声を小さくして言いたい。



デザインあ展
2013年2月8日(金)~2013年6月2日(日)
21_21 DESIGN SIGHT

展覧会のテーマは、「デザインマインド」。日々の生活や行動をするうえで欠かせないのが、洞察力や創造力とともに、無意識的に物事の適正を判断する身体能力です。ここでは、この両面について育まれる能力を「デザインマインド」と呼ぶことにいたします。

多種多様な情報が迅速に手元に届く時代を迎え、ただ受け身の生活に留まることなく、大切なものを一人ひとりが感じとり、選択し、そして思考を深めることの重要性が問われています。その点からも、豊かなデザインマインドが全ての人に求められているといえるでしょう。

次代を担う子どもたちのデザインマインドを育てること。大人もまた、豊かな感受性を保ちながら、デザインマインドを養うこと。本展では、音や映像も活かしながら、全身で体感できる展示を通して、デザインマインドを育むための試みを、さまざまに用意いたしました。


とても評判の良い展覧会でした。
最終日近くは開館時間を早めたり、それでも長い行列ができていたようです。最終日には2時間待ちだったとか。
ただ見て通り過ぎるというものではなく、手を動かして体験するコーナーがいくつもあり、それもあって混雑していたのでしょう。
私は2回行きましたが、2月と3月でしたので、まだそれほどの混雑は体験せずに済みました。でも3月の時は開館前から列ができていましたね。


| 21_21 | feb. 2013 |

いろいろな人たちが、「楽しかった」「面白かった」「笑った」「考えさせられた」云々と感想をのべております。じっさい、子供たちばかりではなく、若者たち、大人たちもとても楽しんでいるように見えました。ググるとポジティブな感想を書いたウェブログやツイートがたくさん見つかると思います。

たとえば、↓のウェブログ。
写真も多く、とても良くまとまっています。


そうした中で、ちょっと異色だったのがこれ。



クシノさんにとって、なにが、どうつまらなかったのか、このツイートからは分からないのですが、じつは私もうすうすそのように感じるところがあったので、ちょっとその「つまらなさ」を考えてみようと思い立ちました。

とにかく皆様がこの展覧会を褒め讃えております。
ですので、ここでは声を小さくして「つまんなかったかもしれない」とつぶやくことにします。

楽しいけれどもつまらない。


| 21_21 | feb. 2013 |

最初に書いておきますが、この展覧会は楽しかったと思います。

いったいお前は何を言っているのか。

いや、楽しいのだけれども、この楽しさはどのような性質のものなのか、ということです。

「マルとシカク♪」の歌と映像とか、風呂敷でいろいろなモノを包むとか、折り紙を折るとか、お寿司の解散とか、iPadでスケッチをするとか……

映像を見ることは楽しい。手を動かすことは楽しい。

なんですけれどもね。

映画を見るのもテレビを見るのも楽しいですよね。積み木で遊んだり、お人形で遊んだり、プラレールで遊んだり、公園を走りまわるのだって、楽しいですよね。それと何が違うのか、分からないのです。

「体験する」「知識を得る」という手段はたくさんあります。「デザインあ展」のさまざまな仕掛けもそのひとつでしょう。でも、それがなぜ「デザイン」なのか、分からないのです。この仕掛けが「デザインマインドを育てる・養う」こととどのように結びつくのか、よく分からないのです。逆に、これがデザインマインドを育てうるならば、入館料を払ってミュージアムに行くのではなく、外の広場で思いっきり身体を動かして遊べばいいのではないでしょうか。おうちで積み木を積んでいればいいのではないでしょうか。お友達とバービーで遊べばいいのではないでしょうか。

しかし、ひょとすると、ですね。そうした場がない。どうしてよいのか分からない。だから場を用意しましょう、ということなのかも知れません。たとえば外で走る代わりにジムに行ってトレーニングをするようなことです。

絵なんて勝手に描けばいいと思うけれども、どうしていいか分からないだろうから、紙と色鉛筆を用意しましょう。何を描いていいか分からないでしょうから、紙にはあらかじめ「あ」という文字をプリントしておきましょう。いわゆる塗り絵ですが、枠通りにきっちり塗らなくてもいいですよ。自由な発想で紙面を埋めてくださいね。それでもどうしたら良いか分からない人は、他の人の描いたものを張っておきますから、参考にしてくださいね。

ということなのか知らん。

あ、あと、ほとんどのモノが動きません。お寿司も解散しっぱなしです。これはテレビの勝ちですね。

デザインとはなにか。


| 21_21 | feb. 2013 |

私自身は「あらゆるものはデザインされている」と考えておりますので、「デザインあ展」がデザインじゃないとは思いません。でも、「デザインとはこういうものです」といわれると違和感を覚えます。

デザインの定義はさまざまで、デザイナーさんたちはそれぞれ自分なりの定義を持っていて、それを軸に仕事をしているわけです。だれの定義が正しくて、誰の定義が間違っている、というものではないと思います。デザインをするにあたって、何を軸にするか、何を重視するか、ウェイトの置きかたの違いでしょう。

ただ、世間で多様な言葉でデザインと呼ばれているものを集合的に見てゆくと、ある程度共通するところがあります。私自身は、広辞苑におけるデザインの定義が良くまとまっていると考えております。


【デザイン】
(2)意匠計画。生活に必要な製品を製作するにあたり、その材質・機能・技術および美的造形性などの諸要素と、生産・消費面からの各種の要求を検討・調整する総合的造形計画。「建築―」「衣服を―する」


さてさて、広辞苑における定義を念頭において展覧会を見て感じるのは、ここにあるのはデザインの一部である、ということです。

手を動かして何かをつくる、描く。
お寿司の大きさを考える。
G型醤油差しをカットして、醤油を差すしくみを見る。

これは「美的造形性」と「機能」の側面です。

ここにない、ここに示されていないのは、デザインが対峙する問題、デザインの理由(わけ)です。広辞苑の定義でいうならば「生産・消費面からの各種の要求」です。すなわち、デザインにどのような制約(=材質・技術)があるのか、誰のためにデザインするのか、何のためにデザインするのかという視点です。

問題設定がないから、積み木遊びとの違いが見えません。
問題設定がないから、塗り絵との違いが分かりません。
折り紙は紙を折って終わりです。
風呂敷でものを包んで終わりです。
その前も、その先も、見えません。

問題設定には、デザインの目的ばかりではなく、さまざまな制約が含まれます。チャールズ・イームズなんて、デザインは制約に従う、デザインに必要なのは制約だ、というようなことまで言っていますしね。

制約には使用の条件や、素材、技術、コストなどが含まれます。そしてそうした目的や制約は自律的に存在するものではなく、歴史、社会、文化、人、生活を背景に成立しているものです。この展覧会にはその視点がありません。

醤油差しの機能性「だけ」を分析して、はたしてヤマサの「鮮度の一滴」のようなパッケージ・デザインが生まれるでしょうか。醤油、醤油差しに対する問題の分析があって、新たなカタチがそれらへの解決策として生まれてくるのではないでしょうか。

針金を曲げて回転させるオブジェがありました。回転してできるかたちといえば、轆轤でつくる茶碗や皿、ポットなどがあります。しかし、たとえば量産品のカップやポットの生産には石膏型を用いた鋳込み成形slip castingが行われています。轆轤と違って、鋳込みでつくられる形態は回転体である必要はありません。それにも関わらず、多くのカップやポットが回転体をしているのはなぜなのでしょうか。


| 21_21 | feb. 2013 |

ちょうどいいお寿司の大きさとはどのようなものなのでしょうか。それはだれもが一口で食べられる大きさなのでしょうか。「だれも」に、大人も子供も含まれますか。あるいは寿司を握る職人の手の大きさに依存しているのでしょうか。でも、手の大きさに依存しているなら、そのような制約がない機械でつくられる寿司も同じ大きさをしているのはなぜなのでしょうか。

どうもここにはモノだけが存在して、つくり手、受け手といった人間、そしてその背後にある歴史と文化が不在です。しかし、人、歴史、文化を除外してデザインがありえるのでしょうか。人、歴史、文化を除外して「適正な」デザインがありえるのでしょうか。

それとも、モノを見れば自然とわかるはず、ということなのか知らん。

人間の不在。


| 21_21 | feb. 2013 |

iPadをスケッチブック代わりにして絵を描く。
ディスプレイに現れる動画を見ながら、折り紙を折る。

随所に手を動かす仕掛けが用意されているのですが、通常のワークショップと異なり、教えてくれる生身の人間はいません。なので特別なワークショップ企画を除くと、コミュニケーションをとりながら何かをつくるということがありません。インタラクティブではあるけれども、それはプログラムされた範囲でのことであって、コミュニケーションではない。なので、つくり手と受け手がともに学ぶプロセスはありません。参加者同士のコミュニケーションを促す仕掛けもありません。これはちょっと残念でした。もっとも、もともとテレビ番組はそういうものですし、4ヵ月という長期にわたる展覧会にそれを要求するのは難しいと思いますが。

* * *


| 21_21 | feb. 2013 |

まあ、ここに書いてきたことはほとんど挙げ足取りです。褒めるべきところはたくさんある展覧会です。でもそれはいろいろなウェブログ、展覧会レビューなどで出尽くしていると思います。なので、あえてそれらとは異なる点を、小さな声でつぶやいてみました。

この番組・展覧会の対象年齢が小学生未満、ということならば、ここに書いたことは無視すべきでしょう。これだけ楽しむことができれば充分です。ただ、会場には子供たちのお父さん、お母さんたちも来ているわけです。メインのターゲットではなかったとしても、彼らも鑑賞者です。そして、その子供たちに大きな影響を与える立場にあるわけです。そのほかにも、大学生や、社会人カップルの姿もたくさん見られました。彼らがこの展覧会を見て、デザインをどのように理解したのか、気になるところです。

……しかし、デザインマインドってなんでしょう。小さな声でお尋ねします。展覧会に行ったみなさん、デザインマインドは養われましたか?


* * *

私は ↓ の記事の内容がよく理解できませんでした。精進したいと思います。


「会場で遊ぶ子どもは、自分が良かれと思って作ったデザインを、他の子が崩してゆくこと、しかし、それが意外と面白い結果を生むことも経験的に学んだことだろう。」

ううむ、保育園や幼稚園に通っている子供たちにとっては、こんなの日常茶飯事ではないですか。公園の砂場でも日常的に見かけることではありませんか。ちょっと考えすぎに思うのですが。




『デザインあ あなのほん』小学館、2013年。