2011年1月30日日曜日

白井晟一と親和銀行:モニュメントとしての建築、パトロンとしての銀行

※白井晟一展に関する先の2つのエントリと文体が異なっていたのでリライトしました。内容も少し増えています(20110203)。

汐留ミュージアムで開催されている「白井晟一」展について、先のエントリで親和銀行はなぜ白井に本店(佐世保)の建築を依頼しただろうか、という疑問を書きました。


なぜ白井晟一なのか。
クライアントは何を意図していたのか。
少しばかりの文献を調べた範囲では大したことは分かりませんでしたが、メモランダム。

* * *


『親和銀行三十年』親和銀行、1972年12月、100頁。

親和銀行本店新築依頼の経緯

親和銀行本店新築依頼の経緯について、白井は次のように書いています。

昭和三十六年[1961年]春、今はなくなられたこの銀行の會長からのお話で、百五十坪ばかりの空地に多少公共的意味をもったモニュメンタルなものを、ということで仕事をはじめさせてもらったのだが、おもえば八年間の勞作であった。
発想はながく私の郷愁だとされている一九五五年頃の原爆堂計畫だと指摘する人もある。…(中略)…いずれにしても、この造形は銀行自慢の様式建築だった舊本館とは全く異質なので、私には却って氣樂に造形、意圖を完うすることができると考えていた。着工は銀行の都合で五年ものびてしまったが、このあまりに長い勞作期間に、銀行業務の伸張による度々の計畫轉位、そうしてとうとうふみきられた舊本館の改築とそれに伴う最後の増築が決められたのは昭和四十三年の夏であった。
(中略)
……もし瓢簞から何かがとびだしたということであれば、それは終始かわらなかった施主の信頼と施工者の熱誠が、この菲才[ひさい]を支えてくれたからだ。

「親和銀行本店」『白井晟一全集 別巻I 白井晟一の眼I』同朋舎出版、1988年12月、334-5頁(初出:「学会賞受賞にあたって」『建築雑誌』6908)。

* * *

この本店建築について、親和銀行側の資料として外部の者が容易に見ることができるものには社史があります。

親和銀行の社史は2点。『親和銀行二十年 : その走路をかえりみる』(1959年[昭和34年]年10月)と、『親和銀行三十年』(1972年[昭和47年]12月)。

『親和銀行二十年』は昭和34年の刊行なので、まだ計画にも入っていない頃。ですので、参考になるのは昭和47年に刊行された『親和銀行三十年』です。
『親和銀行三十年』には上の「学会賞受賞にあたって」の全文が引用されています(66-7頁)。そのほか、白井による本店建築についても紙幅が割かれていますので、白井が述べているいくつかの点について、社史などから抜き書きしておきます。

北村徳太郎と白井晟一

まず、「この銀行の會長からのお話」。
会長とは北村徳太郎氏(1886-1968)のことと思われます。
北村徳太郎は、親和銀行の前身のひとつである佐世保商業銀行の頭取も務めた人物。1946年から1960年まで衆議院議員。その間に片山哲内閣の運輸大臣、芦田均内閣の大蔵大臣を務めています。クリスチャンであった北村は、東京神学大学、明治学院大学などの理事長も務めたそうです(wikipedia)。

北村がなぜ白井晟一に建築を依頼することになったのかは社史には書かれていません。中央での仕事の関係で白井を紹介されたと考えられますが、要検討です。

昭和36年に話があり、その後本店第一期建築の竣工は昭和42年(1967年)。その後コンピュータ棟として懐霄館(かいしょうかん)が1975年に竣工しています。本店の竣工までに、白井は親和銀行東京支店(1963年)、大波止支店(1963年)を完成させています。北村徳太郎は亡くなる前に白井の仕事を、すべてではありませんが見届けていることになります。

モニュメントとしての建築、パトロンとしての北村徳太郎

建築の意図としての「多少公共的意味をもったモニュメンタルなもの」。
地方都市(佐世保市)の一商業銀行である親和銀行が公共的意味をもつ建築を意図していたということは驚きです。そしてそのような貢献もまた、会長であった北村徳太郎が大いに関心を抱いていた分野だったようです。『二十年』には、北村がさまざまな文化活動、そしてデザインにも非常に気を配っていた様子が記されています。

当行には早くから色々な文化活動があつたが、これをおのずからのうちに方向づけ指導しているものは北村徳太郎に他ならぬ。
すべて行員のものする文章、絵画、写真その他、実務に関するものと芸術に関するものとを問わず、ポスターの意匠色感創意の多少、或いは書体のことに至るまで、極めて精細に観察し、批判してあますところのないのが彼の日常であった。
……(中略)……
同業がものする色々な文書、PR用の文章絵画ビラなどは彼が最も注意ふかく観るところである。若しそこに新鮮味や創意のひらめきが看取さるれば、彼は必ずそれを指し示して、これを見よというのである。この点、職務に熱心な教師と何ら変りがないのである。店舗の壁とカウンターの色の調和から、手洗場のタイルの色と質に至るまでなほざりにすることは許されなかった。だから之等に携わる行員はすべて、彼のこの教育を受けたものといつて過言ではない。若し親和銀行がつくるカレンダーなどに新鮮な感覚があるとすれば、それはこうした北村の教育があずかつていると見て差支えない。

『親和銀行二十年 : その走路をかえりみる』親和銀行、1959年[昭和34年]年10月、76-77頁。

北村徳太郎は文学にも造詣が深かったとのこと。
以下は、『西日本文化』という雑誌(福岡、第73号、昭和46年7月)に掲載された座談会から引用された一部です。

R—私が非常に感心しているのは、親和銀行の出版活動ですね。……
R—……このH銀行と親和銀行には、ほとほと感心しますね。やっぱりこれは北村徳太郎さんの影響だろうね。
K—そうです。親和の北村さんがトルストイアンなんです。非常にトルストイの文学と人間性に傾倒して、ロシアに行っていろいろトルストイのことを調べたくらいです。彼自身もクリスチャンですね。北村さんの蔵書はすばらしいんですってね。そういう銀行マン以外の個人としての強烈な個性が佐世保文化に影響を与えている。
N—その北村さんの精神をですね、あとの坂田重保さん[1898-1984。当時親和銀行頭取]が受けついでいる。北村さんの亡きあとを。……北村さんだけに終わらないですね。

『親和銀行三十年』親和銀行、1972年12月、22頁。

トップのこのような文化活動への理解は、白井が言うところの「終始かわらなかった施主の信頼」であり、そのことが「毎日新聞芸術賞(1969年度)」「日本建築学会賞(1968年度)」「建築年鑑賞(1969年度)」という白井の業績に資したことは間違いないでしょう。

写真集『懐霄舘』のあとがきに、白井は次のように記しています。

この建物が出來てもう五年になる。北村徳太郎氏の遺志に端緒を持つこの仕事だが、坂田重保頭取の二十年來の知遇とその變わらぬ寛容な支持がなければ、懐霄舘は地上に現れることがなかったであろう。

「懐霄舘あとがき」『白井晟一全集 別巻I 白井晟一の眼I』同朋舎出版、1988年12月、340頁(初出:「あとがき」寫真集『懐霄舘』中央公論社、1980年)。

門奈博之による親和銀行旧本館

「銀行自慢の様式建築だった舊本館」とはどのようなものだったのでしょうか。

解体された旧本館は、親和の前身佐世保商業銀行が大正一五年にその本店として建築したもので、設計者は当時早稲田大学工科を出た青年門奈博之であった。当時の小さい銀行としては、立派すぎるという世評を受けた建物で、解体されるまでの四〇年余間威容を保ちつづけ、最後までその解体を惜しむ声が寄せられたものである。

『親和銀行三十年』親和銀行、1972年12月、60頁。

その建築については、『二十年』にもう少し詳しく描かれています。




大正14年、佐世保商銀は本店をはるか南に寄った島瀬町に新築することになった……。当時の島瀬町は……市の中心からは南に寄りすぎているという非難があつたのである。しかしこの新築に任じられた当時の常務北村はこれらの非難を排して、思い切りよく新築工事に踏みきつた。
ところで、その建築には20万円の資金が要る予定であつた。勿論当時20万円という巨額な建築は不相応にすぎるという非難があつた。北村はこの非難も押し切つた。
当時佐世保商銀の払込資本金は124万円……預金は200万円であつたからその凡そ10%に相当するわけである。そんなわけで大きすぎるという批評はあたつていたと言えるかも知れぬ。
さて新築する建物の様式と意匠についても色んな提案や批評があつたわけであるが、この点については早稲田の工科を出た青年建築家門奈博之を監督にして最新の意匠を盛ることにし、旧弊な考え方の介入することを防いだものである。

『親和銀行二十年 : その走路をかえりみる』親和銀行、1959年年10月、72-74頁。

旧本店建築の時点ですでに、北村徳太郎は建築の持つモニュメントとしての側面を自行のアイデンティティとして活用していたと考えられましょう。

贅を尽くした調度類

残念ながら、社史は本店支店の建築にいたる白井晟一とのやりとりについては何も記録していません。
記されているのは当時の本店、本店別館が狭隘なる様と、建設中の状況、本店建築がその後に受けたさまざまな栄誉です。

それに比べて調度類については比較的詳細に記録されてます。これは『三十年』制作以前に行内誌に執筆された記事があるためのようです。いくつかの箇所を抜粋します。

設計者白石は本店新築に用いる石材の産地を数次に亘って歴訪されたが、調度類の選択についても最も意を用いられた。……
カウンターはアメリカのノル社製で「行員とお客の間のへだたりをなくし、両者の隔絶感を無くすために意を用いた」と称するものである。……
床には絨毯を敷いたが、設計者は「この柔らかい絨毯の感触はお客に対するサービスであり、これがすり切れる程お客が来ればそれは満足すべきではないか」という所である。

『親和銀行三十年』親和銀行、1972年12月、67-69頁。

これらの記述の後、家具調度類の種類、メーカーなどの記録が続いていますが、これはおそらく建築誌などにおける記述を参考にしたほうが、より詳細で正確でしょう。著名な現代家具メーカーの製品が用いられる一方で、骨董家具も多く用いられていることが『親和銀行三十年』に記されています。

2011年1月28日金曜日

水飲み場:白井晟一の建築

白井晟一のいくつかの仕事に見られる手洗いが気になってしまって、図書館で『白井晟一全集』(同朋舎出版)を見てきてしまいました。確認できたのは、やはり「煥乎堂」と「親和銀行大波止支店」のふたつ。図面には記載されていない「松濤美術館」を加えて3箇所のようです。


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「煥乎堂」は群馬県前橋市の書店。ホームページによると創業は明治初年(創立は大正10年)という歴史のある本屋さんです。
白井晟一が手掛けた建物(1954年)は現存していませんが、かつてのそのエントランスの壁面に石造りの手洗いが設置されていたようです。


『白井晟一全集 図集IV 商業施設』同朋舎出版、1987年、183頁。


『白井晟一全集 図集IV 商業施設』同朋舎出版、1987年、181頁。

全集にはこの手洗いの詳細図も収録されています。


『白井晟一全集 図集IV 商業施設』同朋舎出版、1987年、186頁。

図面には「水栓(蛇口)ハブロンズ鋳造彫刻型トシ其ノ形状及寸法ハ別ニ指示スル」とあり、水栓もオリジナルが使用されていたようです。こだわっていますよね。

「白井晟一展」には煥乎堂の図面はなく、写真が展示されていましたが、そこにこの手洗いを見ることができます。『白井晟一全集』ではこの写真を見つけることができませんでした。

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こちらは「親和銀行大波止支店」(1963年)。長崎市に現存しています。


大きな地図で見る

展示されていた写真には手洗いを見ることができなかったのですが、エントランス扉を入ったところに設置されているようです。
なぜ、銀行のエントランスに手洗い?


『白井晟一全集 図集IV 商業施設』同朋舎出版、1987年、215頁。

こちらが内部の詳細図。展覧会にも出品されています。


『白井晟一全集 図集IV 商業施設』同朋舎出版、1987年、231頁。

「手洗鉢、壁ノ本石彫出シ(詳細別示)」と書かれています。残念ながら『全集』にはこの別示が収録されていません。

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そして渋谷区立松濤美術館(1980年)。


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水飲み(手洗い?)があるのですが、


| shoto | sep. 2009 |

図面には示されていません(赤○の部分)。


『白井晟一全集 図集III 公共施設』同朋舎出版、1988年、256頁。

球体をカットした形状で、先の二つとはカタチもディティールも異なります。
蛇口にかなりのこだわりが見られるにもかかわらず、図面に描かれなかったのはなぜでしょう。

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もうひとつ。
実現しなかったものですが、「秋田林業會舘計画」(1951年)。
入口左側に見えるのは、噴水型の水飲み場ではないでしょうか。


『白井晟一全集 補遺』同朋舎出版、1988年、82頁。

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煥乎堂は1954年、親和銀行大波止支店は1963年と、両者は時期的に近い。対して松濤美術館は1980年と、大波止支店の17年後。相当な時間をおいて、壁面の手洗いというモチーフがつながっているのです。

2011年1月27日木曜日

電気の史料館:路面電車の走る街

チラシのデザインに惹かれて訪問。



路面電車の走る街
——都市の交通と電気——
2010年11月30日(火)~2011年3月6日(日)
東京電力・電気の史料館

場所は横浜市鶴見区江ケ崎町。アクセスに便利な場所ではありませんが、川崎駅から無料の送迎バスがあります。

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企画展では20ページの立派な冊子がもらえます。
こちらもデザインの仕事に注目。
登場する電車は、同じパターン2種類が繰り返し用いられているのはお約束。でも、そういったことを感じさせないステキなデザイン。



インフラとしての鉄道と街の姿を、赤の微妙な濃淡で表現しています。



柱や本文の背景にも同じパターンが繰り返されていますが、いい感じ。



柱のパターンとしてよく用いられるライン。それが電車の架線になっているなんて、楽しいではないですか。(線路を用いるパターンもありえるかも。)



奥付によると、制作は「株式会社モンタージュ」とのことです。

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で、展示はどうだったのか。

都市における電気の普及と路面電車との関係を描こうとしているわけですが、やや中途半端。鉄道ファンを取り込もうとしているのか、そちら方面の展示品が多く、電気との関係はやや希薄だったと思います。


| tsurumi | jan. 2012 |

これは「まぼろしの42番系統」というジオラマ。
「最盛期の都電は41路線で運行されていましたが、このジオラマでは42番目の路線があったという設定で、昭和30年代の情景を再現しています」。


| tsurumi | jan. 2012 |

三丁目の夕日の世界ですね。


| tsurumi | jan. 2012 |

ディティールまで、非常によくできていますが、電気との関係は……。
でも、純粋に路面電車の展覧会だと思えば十分に楽しめますよ。

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館内には火力発電所で使われていたタービンや水力発電機など、重厚長大なモノたちがたくさん。


| tsurumi | jan. 2012 |

下は福島第二原子力発電所で使われていた制御パネル。
大量のスイッチにワクワク。
こんなボタン類が「未来」のメタファーになっていた時代もありましたねぇ。現在の子供たちにとっての未来のメタファーってなんでしょう?



東京市電気局のマンホール。マンホール研究者垂涎(?)。


| tsurumi | jan. 2012 |

受付の方たちもとても丁寧で親切。
企業博物館は楽しい。

❖ ❖ ❖

201212追記
電気の史料館を見に行って2ヵ月にならない頃、3月11日に震災が起きました。
原子力発電所の事故も起き、そのあおりで電気の史料館は現在も閉鎖中です。東電の電気館(渋谷)は、閉鎖の後、建物自体が売却されるそうです。

当分展示を見ることはできそうにありませんので、ここに史料館の写真をいくつか追加しておきます。

東電福島第二原子力発電所の制御パネル。


| tsurumi | jan. 2012 |

同。


| tsurumi | jan. 2012 |

原子力発電所の配管模型。


| tsurumi | jan. 2012 |

お茶の間の電化。


| tsurumi | jan. 2012 |

電気自動車。


| tsurumi | jan. 2012 |

発電機各種。

2011年1月26日水曜日

汐留ミュージアム:白井晟一展



白井晟一 精神と空間
2011年1月8日(土)~2011年3月27日(日)
パナソニック電工 汐留ミュージアム

建築家白井晟一の展覧会。見る予定もなく、予備知識もなく、銀座での所用後に時間があったので見るといういつものパターン。

知識がないのも恥ずかしいが、知ったかぶりするのももっと恥ずかしい。白井についてはwikipediaにも詳細な解説がありますので、ご存じでない方はそちらをご覧ください。atokで「しらいせ」まで入力したところで「白井晟一」を予測変換候補に挙げてくれたのにはびっくり。

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私の好みとしては、前期の木造建築よりも親和銀行本店など、一連のRC建築に興味惹かれます。白井は九州に拠点を置く親和銀行の本店関連建築を初めとして、支店もいくつか手掛けているようです。白井建築の思想の源泉が今回の展覧会の主題ですが、私としては親和銀行がなぜ白井に建築を依頼したのか、という点に興味があります。本店ばかりではなく支店の建築も白井に依頼することで、はたして経営者は白井建築を親和銀行のヴィジュアル・アイデンティティにしようとする意図があったのでしょうか。かつてイギリスの鉄道会社やロンドン市交通局が駅舎の建築において意図したように。

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これまた知らなかったのですが、渋谷区立松濤美術館も白井晟一の作品だったのですね。


| shoto | sep. 2009 |

松濤美術館といえば、エントランス前、上の写真には写っていませんが右側の壁に窪みがあり、そこに手洗い(らしきもの)が設置されています。


| shoto | sep. 2009 |

水が出るのか、そもそもどうやって水を出すのか、分かりません。


| shoto | sep. 2009 |

このコック、似た石膏型が展覧会に出品されていました。
同じものでしょうか。

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今回の展覧会を見て気がついたのは、このタイプの手洗い(?)が白井の他の建築でもいくつか用いられていることです。

ひとつは煥乎堂。群馬県の書店です(現存しません)。
エントランス脇にもう少し縦長ではありますが、ほぼ同一意匠の手洗いがあったようです。写真のみ展示されていましたが、足下の壁には水栓の元コックが見えましたので、手洗いとして機能していたのでしょう。

もう一つは、親和銀行大波止支店(長崎市)です。出品されていた図面に同様の手洗いが書き込まれています。さらにその仕様については「詳細別示」とあり、白井のこだわりが感じられます。

そして、なぜか松濤美術館の1階平面図にはこの手洗いは示されていませんでした。

なぜエントランスに手洗いなのでしょう。
白井のその他の建築でも用いられているのでしょうか。
白井はこのモチーフをどこから引用したのでしょうか。

2011年1月25日火曜日

水飲み場:聖蹟公園

ここは東海道品川宿の本陣跡。バリアフリー対応の水飲み場です。

「水」ステッカーは必要なのか?


| kita shinagawa 2 | jan. 2011 |

水受けから排水路、排水溝までが左右対称なので、手洗い水栓の位置は寄せざるを得ない。


| kita shinagawa 2 | jan. 2011 |

内側に段の付いたカット。


| kita shinagawa 2 | jan. 2011 |

東京市、品川聖蹟公園。昭和十三年十一月開園。


| kita shinagawa 2 | jan. 2011 |

「明治元年に明治天皇の行幸の際の行在所となったことに因み、聖蹟公園と命名されている。」のだそうです。


| kita shinagawa 2 | jan. 2011 |

2011年1月24日月曜日

水飲み場:上野動物園 08

クラシックな水飲み場が目立つ上野動物園でしたが、新しい水飲み場もふつうにあります。

ここは不忍池を臨む場所。お弁当を食べるベンチの脇。
手洗い水栓にホース用ソケットが付いていますので、清掃などの業務にも使われているのでしょう。


| ueno zoo | dec. 2010 |

周囲のアスファルトが新しいところをみると、最近更新された水飲み場のようです。以前はどんなカタチのものがあったのでしょうか。

2011年1月23日日曜日

水飲み場:上野動物園 07

オブジェ系水飲み場。


| ueno zoo | dec. 2010 |

こんなカタチですが、手洗い水栓まで付いています。


| ueno zoo | dec. 2010 |

水受けは団扇型。


| ueno zoo | dec. 2010 |

周囲には、おなじコンセプトのベンチ。


| ueno zoo | dec. 2010 |

オブジェに機能は必要なのか?
それとも機能を理由(=予算獲得)にオブジェを作っているのか?

2011年1月22日土曜日

水飲み場:上野動物園 06

3段×2口=6人用の水飲み場です。


| ueno zoo | dec. 2010 |

摘んで、捻って、引き上げる。


| ueno zoo | dec. 2010 |

で、こんなカタチになりました。


| ueno zoo | dec. 2010 |

2011年1月21日金曜日

松濤美術館:大正イマジュリィの世界

会期も残りわずかですが。




大正イマジュリィの世界
デザインとイラストレーションのモダーンズ
渋谷区立松濤美術館
2010年11月30日(火)〜2011年年1月23日(日)


知人が「大正イマジュリィ学会」の会員で、いちど研究報告を聞きに行ったことがあるのですが、そもそも「イマジュリィ」とはなんなのか、いまひとつ分かっていませんでした。

今回展覧会に行って展示品を見て、解説を読んで、家に帰って図録を見て、なんとなくその意味するところが分かった感じです。要約すると、大正期前後に巷間の印刷メディアに現れたさまざまな図像、といったところでしょうか。イマジュリィimagerieは仏語で、英語ではimagery。図像、イメージという意味です。「大正デモクラシー」のように古くから使われている言葉かと思いましたが、そうではない。

図録に依れば、

「イマジュリィ」という言葉は僕[=島本浣。京都精華大学教授・大正イマジュリィ学会会長]が言い出したんです。山田俊幸さん[=帝塚山学院大学教授]を中心に、大正期の挿絵や絵はがきなどの領域がおもしろいので、勉強会みたいなものを作ろうよ、ということになったときです。……そのとき、会を何ていう名前にしましょうかということになって、ふと思いついたんです。

山田俊幸監修『大正イマジュリィの世界』ピエ・ブックス、2010年11月、82頁。

大正イマジュリィ学会」の設立は2004年ですから、まったく新しい言葉でした。

* * *

展覧会の内容、感想はいろいろなブロガーの方が報告されているようですので、それらの解説を読むことをお勧めし(笑)、私の気になった画家、橘小夢(たちばな さゆめ、1892〜1970年)のについてのみ、メモしておきます。


橘小夢「水魔」1932年頃、版画
(山田俊幸監修『大正イマジュリィの世界』ピエ・ブックス、2010年11月、63頁)

河童に取り憑かれ水底へと引き込まれてゆく女性像。とても幻想的かつ官能的です。私の他にも、多くの人が足を止めていました。本展の感想を書いたウェブログでも小夢について触れているものは多いですね。まとまって作品を見る機会が欲しいところです。

* * *

いつものように、画家や作品とは関係ないところで気がついてしまったことを少し。

展覧会図録の後半にカラー図版の出品作品リストが附されています。


山田俊幸監修『大正イマジュリィの世界』ピエ・ブックス、2010年11月、164頁。

よく見ると、図版にシャドーのあるものとないものがあります。


山田俊幸監修『大正イマジュリィの世界』ピエ・ブックス、2010年11月、164頁。

この違いはなにか、と観察してみると、どうやら雑誌の表紙など厚みのあるメディアには影があり、挿絵や絵はがき、便せんなど単葉の作品には影がないようなのです。見比べてみると、さらに図版によって影のサイズ(距離)が異なっています。これは厚みの違いを表しているのでしょうか? だとしたら、なんと細かい仕事なのでしょう。

* * *

さて、その視点で前半の本文を見直してみたのですが、どうも様子が異なっているのです。

高畠華宵の作品。上は雑誌表紙で影付き。下は口絵ですが微妙な影が付いています。

山田俊幸監修『大正イマジュリィの世界』ピエ・ブックス、2010年11月、51頁。

広川松五郎の装幀。上の書籍装幀には影がありますが、下の雑誌表紙には影はありません。

山田俊幸監修『大正イマジュリィの世界』ピエ・ブックス、2010年11月、56頁。

こちらは富本憲吉の仕事。表紙の装幀にも、扉絵にも影がありません。

山田俊幸監修『大正イマジュリィの世界』ピエ・ブックス、2010年11月、43頁。

こんな感じで、他のページで紹介されている作品も、影があったりなかったり。ルールが見えないのは、すっきりしませんなぁ。