2010年10月31日日曜日

『欲望のオブジェ』復刊 04

松屋銀座のデザインギャラリー1953で開催された企画展「私が出会ったart&designの本」において、山中俊治氏は3冊の本のひとつとしてフォーティの『欲望のオブジェ』をあげています。

「欲望のオブジェ」は、教条的に批判されがちなデザインの資本主義的な役割について、冷静な歴史的視点で解き明かしてくれました。

山中俊治の「デザインの骨格」 » 私が出会ったart&designの本
http://lleedd.com/blog/2010/05/31/my_art_and_design_books/

教条的に批判されがち、といいますか、歴史的文脈ではほとんどなかったことにされてしまっているような気がします。「冷静な歴史的視点で」という表現も、デザインのこの側面がこれまでに受けてきた扱いを物語っていますね。

* * *

プロダクト・デザイナーの秋田道夫氏がウェブログでデザインの「理由」と「意味」について触れていました。デザイナーの内面での「理由」と「意味」について目にすることは多いのですが、ここに書かれているのは「デザイナーの」ではなく、「デザインの」、です。つまりデザインに対する外部環境からの制約の話です。少し、引用します。

……たぶんみんなは「見た目」で判断をして『どうしてあんなかっこうになっちゃうんだろう?』と疑問や批判をするけれど、ちゃんとした「理由」と「意味」があるわけです。 デザインは様々な条件の中で「折り合って」生まれている。

先日Appleの製品について書きましたが、その製品の販売計画が1000万台に達するようなものであれば電源からコードからいろんなものを「新規部品」を起こす事はそう難しくないでしょう。「全部オリジナル」ということも可能でしょう。……

プロダクトデザインは5万台や10万台で出来る事。数千台で出来る事。すべて違います。
そういう条件の中でデザイナーは「のたうちまわっている」と言っても過言ではありません。

Information/ October 2010
今であれば
http://www.michioakita.jp/whiteboard/2010/10/

こうした制約は、当然のことながらクライアントからデザインへの要求の中に含まれますから、デザイナーにとってそれは初期条件であって障害ではない、という見方もできるかもしれません。秋田さんは、これを「『諦め』を飼いならしながら今の製品デザインと闘っている。」と表現しています。

その闘いかたはデザイナーによって様々でしょう。一般に名の知られたデザイナーならその闘いも少しは楽であるかもしれません。その名前で大量に売ることができる、あるいは少量でもより高い価格で売ることができるならば、そのデザインのためのコスト増をそこで吸収できるからです。

しかし、販売量の見込みも、販売価格も動かせないとなると、デザインによるコスト増はどこで吸収できるでしょうか。機能を減らす? 素材をダウングレードする? 形を妥協する? 多くのデザイナーが「のたうちまわっている」制約とはそのような部分ではないでしょうか。

「デザインの資本主義的な役割」というと大仰ですが、デザイナーが誰から仕事をもらい、何と闘っているかを考えれば、こうした日常的な「闘いと諦めの歴史」が著されないことのほうが不思議です。そういう歴史を書くことと、その現実を追認することとは別なのですから。

* * *

もうひとつ。

秋田氏はExciteの特集で、「『価格をデザインすること』もデザイナーの役割」とも述べています。

この言葉に対して、若干ネガティブな反応があったと記憶しています。価格をデザインすることが、価値を偽装することに結びついている。そういう反応だったと思います。この言葉だけを捉えるとそういう読みかたもできるかもしれません。でも、本文を読むと、これも秋田さんの「闘いかた」なのだと言うことが分かります。

製品を多くの人に使ってほしいし、いろいろな場所で売られてほしいと思うので、僕は誰もが買いやすい値段を付けようと思う。“デザインされていること”を特別に訴えるのではなく、すべての製品と同じ土俵で勝負したいと思っています。
……
最終的に値段や方向性を決めるのはメーカーですが、やっぱり売れないと次につながらないじゃないですか。次につながらなければ、製品の改良や改善もできない。それをどれだけ賞賛されても、実際に買う人が少なくて、3年後に消えてしまうというのは悲しいですね…。

秋田道夫、プロダクトデザイナーが果たすべきこと。|エキサイトイズム
2009年2月23日
http://media.excite.co.jp/ism/135/index.html

じつは柴田文江氏も象印のZUTTOシリーズに関して秋田氏とほぼ同じことを語っています。

最初は炊飯ジャーから金属でやりたいと思ったんですよ。でもそこは詰めていくうちにコスト的に難しかった。

それこそ「デザイン家電」にしてしまえば、その当時であれば高くても売れたかもしれないけど、私としてはそういうものではなく、普通の家庭で使ってほしいと思ったんですね。もちろんデザインが分かる人にも買ってほしいけれど、自分の母親みたいな人がなんとなく買って帰ってきたみたいな(笑)。知らずに買って、娘さんとかに「カッコいいの買ってきたじゃないの」と言われちゃうようなものを作りたかった。

金属にこだわっていたらその値段設定はできなかった。だからそこは自分で方向を変えて、金属ではなく、金属の表情だけを使いました。

8万円も10万円もするものを作ったところで、その後につながるかなあって思ったんですよ。今回の炊飯ジャーがうまくいったら本当にいつか金属のものが作れるかもしれない。その前段階として作りました。

デザイン家電の匠たち Part 4 柴田文江デザインの「象印ZUTTOシリーズ」
Chapter02 柴田文江氏
pdweb.jp プロダクトデザインの総合Webマガジン
http://www.pdweb.jp/special/special03_part4_02.shtml

誰の手に届けたいのか、ということを考えれば、自ずと価格が決まる。価格が決まれば、デザインでできることにも制約ができる。その制約を背景にデザインをする。これはまさしく秋田氏のいう「価格をデザインする」ということと同じだと思います。

忘れてならないのは、こうした価格や流通などの制約はすべて資本主義的生産システムの一部であり、デザインもその枠組みの中で成立しているということです。そして、そういうプロセスを経てでき上がるデザインが現実に存在しているわけで、ただでき上がったものを現在の視点から批評するのではなく、なぜそのようなモノが作られ、売られ、人びとの生活の中に入っていったのか、それを描いた歴史を読みたい、と私は思っております。


2010年10月25日月曜日

『欲望のオブジェ』復刊 03

『欲望のオブジェ』の邦訳文中、一箇所気になっている部分があります。

私には人様の翻訳上の間違いを指摘できるほどの英語力はありませんが、その部分については別の文献で内容を知っていたため、気になっていました。「再版のための訳者あとがき」によれば、新装版では「いくらか用字用語の改訂・統一をはかった」とのこと。再版されると分かっていれば、鹿島出版会に誤りについて指摘しておけばよかったと、いまさらながら思っています。本書および翻訳の主旨にはほとんど影響していませんが、なにかの参考にされることもあるかもしれませんから、ここに記しておきます。

* * *

当該箇所は、新装版では第2章、50ページ。イギリスの製陶業者ジョサイア・ウェッジウッドが共同経営者であるトマス・ベントリに宛てた書簡からの引用です。赤字が指摘したい部分です。

拝復。貴殿が先の書状でいみじくも述べられているテリン・モデル・アンド・モールド社の欠陥については、私としてまったくおおせのとおりと申し上げるほかありません。残念ながら、チャパード氏はわれわれにとってあまり役に立ちそうにはないのです。彼がわれわれのために一生懸命にやってくれようとしているだけに、私にはよけいつらいことなのですが……。

テリンは、正直に申し上げて、まず何よりも「エンズ・アンド・サイズ」すべての形態に問題があり、それぞれが互いにまったく合わず、飾りのほうにも同じ欠陥が見られます。深皿の上部や蓋についても同様です。彫刻装飾は未完成で、全体がこの種の仕事に必要な技量を示していないので、私は彼をふたたび成形師として採用することには躊躇してしまうのです。
(エイドリアン・フォーティ『欲望のオブジェ』邦訳新装版、鹿島出版会、2010年8月、50頁)

私の知る限り、正しくは以下の通りです。

テリーヌ(チュリーン)の原型(モデル)と型(モールド)を受けとりました。先の書状で貴殿からご説明いただいたとおり、その欠陥につきましては貴殿の説明が誇張ではないとしか申し上げられません。
(中略)
テリーヌは正直に申し上げて、あらゆる縁と側面の形態におそろしく問題があります。それらはすべて互いに調和していません。同様の欠陥が装飾にも、さらにはディッシュの上部とその蓋とにも見られます。

もとの英文も示しておきましょう。

I have recd. the Terrine model & mould, the imperfections of which you describ’d so justly in your last letter that I need only say your acct. of them was not exagerated, I fear Mr. Chubbard will not be of much use to us, which I am the more concern'd for, as he seems so well dispos'd to do his best for us ...

The Terrine is capitally defective in point of truth in the form of all the ends & sides which do not correspond at all with each other, there is the same fault in the ornamts. & likewise in the top of the dish, & the Cover. The carv’d ornaments are not finish’d, & the whole shews such a want of that Masterliness necessary in the execution of these works, as quite discourages me from thinking of employing him again as a modeler.

Adrian Forty, Object of desire, 1986, p. 35.

書簡の日付は1767年12月17日。18世紀後半の書簡ですから、現在ではあまり見慣れない省略形などが用いられ、また小文字であるべきところが大文字になっていたりもします。

冒頭の「recd.」は「received」。「d」のあとのピリオドは省略を表しており、文章は切れていません。もとの書簡では「d」は上付で短い下線が付されているはずです。フォーティの引用は手書きのオリジナルからではなく、Farrer編による書簡集(1903年刊)*からのものです。タイプや印刷では上付+下線を活字に置き換えられないので、ピリオドで代用することが一般的です。また、過去形過去分詞形の「-ed」の代わりに「-'d」が多様されていますが、これはおそらくオリジナルの通りでしょう。
* K. E. Farrer ed., Letters of Josiah Wedgwood, 1903, vol. 1, p. 191.

書簡で触れられているテリーヌ(Terrine)とはチュリーン(Tureen)のこと。蓋付きの深皿を指しています。大文字で始まるため、固有名詞として訳してしまったと想像されます。

下に示した図はウェッジウッド社の18世紀のカタログから、チュリーンの一例。出典はW. Mankowiz, Wedgwood(1966)です。


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気がついてしまったのでついでに記しておきます。

新装版に付された「まえがき」中、歴史家「ブリック・ホブスバウム」とあるのは、「エリック・ホブズボーム Eric John Ernest Hobsbawm」(→ wikipedia)のことではないでしょうか。
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確認しました。「Eric Hobsbawm」です。(20101205追記)

2010年10月24日日曜日

『欲望のオブジェ』復刊 02




その特徴と批判についてのメモランダム。

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デザインを学ぶにおいて必読の書、っていうことになってるらしい
http://kiwamono.blog.so-net.ne.jp/2010-03-05

とか、

本書はこれ以降のデザイン史のバイブルになっていると言ってもよい。
http://www.artgene.net/dictionary/cat48/17501980.html

という評価のある『欲望のオブジェ』ですが、もちろんハーバート・リードの『インダストリアル・デザイン』だって、ペヴスナーの『モダン・デザインの展開』『モダン・デザインの源泉』だって、ジョン・ヘスケットの『インダストリアル・デザインの歴史』だって必読です。

べつに『欲望のオブジェ』以降、それまでのデザイン史の本が不要になったわけではありません。もともとそれぞれの本が内包している問題が違うのです。見ている方向が違うので、それが優れているかどうかは、読者が何を問題にしてるかによって異なります。

以前にも書きましたが、基本的に、リードやペヴスナーの「デザイン史」は、じっさいには「デザイン思想史」です。リードはものづくりのビジョンのために、デザインの歴史を辿りました。ペヴスナーはものづくりのためのヴィジョンの成立と発展を歴史的にたどりました。それに対して、ヘスケットの『インダストリアル・デザインの歴史』や、フォーティの『欲望のオブジェ』は、身の回りのモノのデザインがどのように生まれてきたのか、その過程を考察した歴史書です。

* * *

デザイナーにとって、よりよいデザインの在りかた、よりよいデザインの方法、よりよい表現を追求することは必須です。そのために、過去から現在までの偉大なデザイナーの思想、優れたデザインの方法を学ぶことは必要です。

しかし他方で私たちは理想的な方法だけでデザインが成立していないことを知っています。クライアントの理不尽な要求。技術的、コスト的な困難。マーケットが求める仕様。販売方法にまつわる問題。さまざまな条件、制約というフィルターを抜けて、ようやく最終的な製品が市場に出ます。名もないデザイナーさんたちはこのような苦労、理不尽を嫌というほど経験しているはずです。

たしかにペヴスナー流のデザイン史は、デザイナーに対してデザインするための方法、拠りどころを示してくれます。しかし、プロダクトが市場に出るまでに直面したであろう(あるいは市場に出てから直面したであろう)、さまざまな問題については何も語りません。デザイナーはデザインをした。で、終わりです。売れたのか売れなかったのか。人びとは受け入れたのか受け入れなかったのか。そういう評価軸はありません。

対して、『欲望のオブジェ』が対象とするのは市場に出るデザインです。売れたデザインはなぜ売れたのか。売れなかったデザインはなぜ受け入れられなかったのか。ある時代に支配的なデザインは、どのような要求から生まれてきたのか。フォーティが問題としているのは社会との関係において変容するモノの姿であり、それゆえにその叙述にはデザイナーが登場する必然はないのです。

* * *

デザイナーの脳内におけるデザインの形成ではなく、現実社会に送り出されたデザインの姿とそれが生まれる過程を、フォーティは二つの方法で例示しています。

ひとつはイメージ。人びとの持つ様々な観念は、デザインによってもたらされるイメージによって影響を受けていると同時に、デザインは人びとの観念を取り込むことによって成立しているという点。たとえば「清潔さ」という観念がデザインとの相互関係によって発達する事例が取りあげられています(第7章)。

もうひとつは経営上の必要によって規定されるデザイン。技術やコスト、販売方法など、デザインされたモノをつくり、売る立場からみたデザインの意思決定の姿です。ミクロ的な事例としてはウェッジウッド製品のデザイン(第2章)やロンドン市交通局におけるCI(第10章)、マクロ的にはオフィス機器(第6章)や電気機器(第8章)などが取り上げられています。

フォーティ以後のデザイン史を見てみると、どちらかといえば前者の方法が社会学との関連においてより発達し、後者すなわち経営あるいは経済とデザインとの関連は限定的にしか論じられていないように思われます。

社会的な規程は私たち皆が無意識のうちに受けているものだと思いますが、デザイナーが事実上の障壁として日常的に直面しているのは、クライアントを通じた経営上あるいは経済上の問題ではないでしょうか。ですので、この側面はもっともっと取り上げられてしかるべきであると考えるのですがいかがでしょうか。

* * *

フォーティの『欲望のオブジェ』が刊行された直後は、かなり批判的な批評がなされたようです。その最大の理由は、このデザイン史の本がデザイナーやデザイン運動を取り上げていないこと、すなわちペヴスナー的な方法論によっていないためでした(J. M. ウッダム「回顧と展望」『デザイン史学』第1号、88頁)。しかし、上に述べたとおり、これは対象としている問題の側面が異なるための齟齬であり、両者はけっして互いに否定しあう関係にあるとは思いません。どちらも必要な研究だと思います。

私自身はフォーティのデザイン史観、方法論に共感しているのですが、ちょっと別の視点から批判してみます。

『欲望のオブジェ』は一般的な意味とは多少異なりますが、いわゆる「通史」に相当するデザイン史の本です。「デザインと社会 1750年以後」という副題がそれを示しています。じっさいにはフォーティは歴史を時系列で扱うのではなく、分野、テーマ、問題別に、デザインと社会とがどのようにかかわってきたのかを例示するという方法をとっています。

通史なのですから当然なのですが、本書で取り上げられている事例はさまざまな分野での先行研究に依るところが大きく、著者による実証は(ほとんど)ありません。フォーティはそれまでのデザイン史にない方法論で論理を展開しているわけですが、そのためにこれまた当然のことながらその方法論で行われた実証研究はその時点では(ほとんど)得ることができないわけです。結果的に、本書に取り上げられた事例は、既存研究の中から著者の論理に従う、ある意味都合の良い事例のみをとりあげてちりばめた、と感ずる部分が多々あります。そういうわけで、本書で展開されるデザインの変容が、ほんとうに筆者の主張する論理で生じていたのかどうかについては、十分に疑ってかかる必要があります。

すなわち、本書をデザイン史の方法に関するテキストとして読むにはすばらしいが、これをデザインの歴史の本として読む上ではかなり注意が必要だということです。

逆にいえば、フォーティが示したデザイン決定の論理(イメージの利用と操作、経済的・経営的要求)といったものが、個々のプロダクトにデザインという側面からどのように反映されてきたのかについては、これからなんらかの方法で実証していく必要がある、ということを指摘しておきます。

2010年10月23日土曜日

『欲望のオブジェ』復刊 01

デザイン史の名著、エイドリアン・フォーティの『欲望のオブジェ』が今年8月に復刊しました。

一時はamazonのマーケットプレイスで30,000円もの価格が付いていました。それが、ソフトカバーになって3,300円(税別)。ハードカバー版の定価は4,900円でしたから、かなり入手しやすくなりましたね。




ハードカバー版をもっているのですが、ソフトカバーも買いました。比べてみると、単なるリプリントではなく、内容に異なる点があり、旧版をもっている人も買う価値があります。

  1. 表紙のデザイン(レイアウト)が変更されています。
  2. 著者名カナ表記が異なります。旧版「アドリアン・フォーティ」、新版「エイドリアン・フォーティ」。
  3. 副題が異なります。旧版「デザインと社会 1750—1980」、新版「デザインと社会 1750年以後」。
    現行の英文版に合わせた?
  4. 著者による「まえがき」が追加されました。これは2005年7月付。
    出典は書かれていませんが、英文のいずれかの版に付されたものでしょうか?
    (2005年版の原書に付されているものだそうです)
  5. 前書きの追加によって、以降の頁番号が旧版とは異なります。
    要注意です。
  6. 「再版のための訳者あとがき」が追加されました。
  7. 一見したところ旧版のリプリントに見えますが、旧版とは改行位置が異なる部分があります。訳者あとがきによれば、「いくらか用字用語の改訂・統一をはかった」(319頁)とのこと。
    これも要注意です。
  8. 写真図版が綺麗になりました。旧版は潰れ気で、おそらく原著印刷物から複製していたのではないでしょうか。
    今回はフィルムを入手?

というわけで、新旧でページ番号が異なっているので、引用の際には新旧の別に注意が必要です。旧版に4を足した数が、新版のページ番号です。


2010年10月18日月曜日

世界を変えるデザイン展 vol. 2:デザインの課題の所在


| yurakucho | oct. 2010 |

無印良品、有楽町店3階で開催されている「世界を変えるデザイン展 vol. 2」を見た。




作りなおし、使いなおす。ここちよさの新しいカタチ。

世界を変えるデザイン展vol.2は、発展途上国で製造、使用されているプロダクトのなかで、日本をはじめとする先進国でも十分な価値を持ち、ユニークかつデザイン性の高いプロダクトにフォーカスしました。

そして無印良品が掲げる「くりかえし原点、くりかえし未来。」というキーワードと共鳴し、簡素さが持つ美しさと、慎ましさが生活者の誇りにつながるような商品のあり方をいっしょに考え、具体的に発展途上国で使用されているプロダクト約10点をご紹介します。

現地の素材や廃棄物を再利用して製造されたプロダクトの機能美とデザイン性は、わたしたちの生活に、新しくて温かみのある心地よさを与えてくれることでしょう。

開催期間:2010年10月1日(金)~10月20日(水)
会場場所:無印良品 有楽町 ATELIER MUJI
開催時間:10:00-21:00
入場料:無料


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以下、個人的感想のメモランダム。


| yurakucho | oct. 2010 |

タイトルに「vol. 2」あるとおり、この展覧会は5月に六本木のデザインハブとアクシスを会場に開かれた展覧会とテーマを共にする。なので、5月の展覧会をvol. 1としておこう。

今回の展覧会に訪れて、最初に感じたのはvol. 1とvo. 2の違いである。何が違うのかといえば、それは展示物の違いではなく、デザインが向かう先の違いだ。ふたつの展覧会では、デザインの受け手が逆なのだ。

vol. 1では、われわれは彼らのためにデザインする。デザインされたモノを享受するのは彼ら。そしてデザインは直接的に彼らの生活の質の改善を試みる。そういうプロダクト、プロジェクトを紹介していた。

これにたいして、vol. 2ではデザインの受容者はわれわれである。そして彼らは創り手である。われわれは彼らによって作られたモノを購入し、そのモノの価値、機能、デザインを享受する。彼らは対価を受けとり、それによって生活の質を改善する。

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vol. 2をみて最初に感じたのは違和感であった。

だって、シンシア・スミスの著書の原題は「Design for the other 90%」。そのまま受け止めれば、目的とするのはわれわれ10%のためのデザインではなく、彼ら90%のために何を、どのようにデザインするのか、ということが課題である。展覧会初日に見に行ったのだが、この疑問と違和感をどう処理したものか、逡巡しているうちに時間が経ってしまった。そしてしばらくたって、改めて感じたのは、根本の思想はやはり変わらない。違うとすれば、それは取り組む問題に与えられた時間の差ではないか、ということであった。

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| yurakucho | oct. 2010 |

以前のエントリに付記したが、課題の解決には短期的な側面と長期的な側面とがある。

vol. 1で展示されていた多くのプロダクトが解決しようとしていた問題は、主として短期的な課題である。毎日の水くみの労苦をどのように軽減するか。いかにして清浄な水を入手するか。医療器具の使い回しによる感染症をどう防ぐか。子供たちが勉強できる環境をどのようにして用意するか。われわれの側ではすでにインフラとして整備され、日常的に意識することもない環境を、それが存在しない地域に短期間、さほど大きくはない投資でもたらすために、デザインの力を用いる。

それに対して、vol. 2では、デザインは直接彼ら90%の問題を解決するわけではない。表面的な意味でのデザインの受容者はわれわれである。われわれは彼らが造った商品を購入する。彼らはその対価を受けとる。短期的には、彼らはそのお金で自らの生活の質を高めることができる。もちろん、これではふつうのビジネスだ。あるいは良くてフェアトレードだ。

しかしvol. 2で取り上げられたモノには、それだけの関係ではない可能性がある。

たとえば、木製のラジオ。


| yurakucho | oct. 2010 |

かわいらしいカタチ。滑らかな外観。目盛りのない丸いつまみ。商品の説明によると、

magnoはインドネシアのカンダンガンという貧しい村で人々に働く機会を与え、少ない木材から多くの仕事を生み出し、ひとつひとつ、丁寧に作られています。
このラジオにはメモリはついていません。この未完成さは、わざと仕掛けた、使う人と製品とが深くかかわるためのチャンスです。自分「感覚」や「記憶」をつかって、お気に入りの包装を見つけて下さい。

地元の素材、地元の雇用。これが、合成樹脂製の機能性の高いありふれたデザインであれば、創り手は他の工業製品としてのラジオと競合することは不可能だ。しかし、デザインによって差別化(あまり好きな言葉ではないが)することができているので、独自の商品として成立する。

彼らはこの商品を作り、売ることで、対価を得るばかりではなく、モノをつくる技術を学び、クォリティを管理することと「デザイン」されたモノがもたらす価値を学ぶことができるのだ。

このシステムがうまく回るならば、彼らは単純に安い労働力として他国と競合するものづくりをするのではなく、「デザイン」によってそれだけではない商品作りを行うことができる。

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| yurakucho | oct. 2010 |

「デザイン」という言葉には、名詞と動詞とがある。前者はでき上がったモノを指し、後者はものづくりのプロセスを指す。vol. 2において、名詞としての「デザイン」を享受するのは、たしかにわれわれかもしれない。しかし、動詞として「デザインする」のは彼らだ。現在は十分ではないにしても、それを目指しているに違いない。これらは長期的な視点に立つプロジェクトである。

vol. 1の視点はもっと短期的であった。その点に違和感を感じるプロダクトもあった。私は「ドラえもん」を連想した。のび太君が危機に陥る。ドラえもんが未来の世界で使われている道具で彼を助ける。のび太君はそれで窮地を脱することができるが、彼の周囲の現実世界にはなにも変化がない。ドラえもんがいなくなったら、果たしてのび太君はうまくやっていくことができるだろうか。

もちろん、短期的な課題を解決する必要がある。急がなければ、子供たちは教育を受けないまま大人になってしまうし、病気に感染した人々は死んでしまうからだ。長期の課題と短期の問題解決とにどのようにバランス良く取り組んでいくことができるだろうか。デザインで何が解決できるのだろうか。長期の課題解決に対して、個々のデザイナーは何ができるだろうか。

まだまだ、頭の中がまとまらないし、関連する内容に関する理解も不十分だと思うが、今回もいろいろなことを考えるきっかけを与えてくれる展覧会だった。