2010年5月31日月曜日
水飲み場:上野広小路
東京メトロ銀座線、上野広小路駅。鉄道駅の水飲み場はあまりフォローしていなかったのだが、上野に行く途中にふと目に留まって途中下車。
片側に冷水器。冷水器脇には踏み台があるが、子供にはまだまだ高い。
サインを兼ねたパネルの向こう側は水飲みと、水受けの下には清掃用の水栓。側にトイレがあるし、構造からして、ここで利用客が手を洗うことは想定されていないようだ。そのあたりが公園の水飲みとは思想が違う。
その水飲み水栓が横向きに付いている! というのが、私を途中下車させた要因だ。水が横向きに噴射するのか?
という訳はなく、この水栓、水の出る穴が横(この取り付けかたでいえば上)にあるのだ。立形の場合、水栓全体が水をかぶることになるのでハンドルをひねる手も濡れる。横に付けるとそれがない。水受けに設置する立形に比べて清潔感もある。
うちの壁面に水飲み水栓を取り付けたらなかなかシュールだなと思っていたのだけど、こんな水栓もあるのですね。へぇ。
ところで、冷水器があるのに水飲みは必要なのだろうか?
2010年5月30日日曜日
世界を変えるデザイン展:課題を可視化する
途上国における諸問題をデザインによって解決しようとする試みを紹介する「世界を変えるデザイン展」。
まだAXIS会場は見ていませんが、デザインハブ会場には2回行きました。展示されているプロダクトについてはいろいろな方が感想を書かれると思いますので、ここでは違う視点からメモランダム。
展覧会の趣旨は↓のリンクをご覧ください。
デザインハブ会場入口壁に掲げられた説明パネルがとても優れています。
とあり、続いて
という手順を経て、課題別に8つのダイヤグラムが並びます。
座標のX軸は各国の平均年収。左側に行くほど高く、右側が低い。
Y軸は日本を0として、8つの課題の程度差を国別にプロットする。
諸国は人口に応じて大きさの違う円で表されており、課題を抱える人口の規模も同時に表現されている。
また、円の色は地域を表しており、8つの課題がどのような地域に集中しているのかを見ることができる。
すなわち、2次元の座標でありながら、ここでは4つの情報を同時に見渡すことができるのです。すばらしい。
ダイアグラムはこの展覧会のためのオリジナルなのでしょうか。
正しいデザインは課題の正しい把握から。この会場の見所は、どのプロダクトよりも課題を可視化したこのパネルでしょう。
他方で、ちょっと気になったのはプロダクトを展示している台とプロジェクターのスクリーンです。
展示台は木製のパレットを組み合わせたような構造。スクリーンは半透明のプラスチックを合わせた板。誤解を恐れずに云うならば、私は金持ちが貧乏人の振りをしているような印象を感じました。
入口のパネル「世界の課題」は、日本を基準として世界の課題がどのような位置づけにあるのかを示しています。多くの国は座標の右下にプロットされています。つまり、日本より平均年収が低く、水や食糧、教育等々の基本的なインフラに不自由している国々が、今回展示されているプロダクトのターゲットです。逆に言えば、それらのターゲットとなる国々を基準とすれば、日本は常にはるか左上にプロットされるのです。
私たちは、六本木ミッドタウンという最新のインテリジェントビルの展示会場で、ここには存在しない課題を解決するためのプロダクトを、高みから観賞しているわけです。私たちの周囲の環境と、展示されているプロダクトがターゲットとする世界との間には大きなギャップがあります。しかしながら、この展示台やスクリーンは、その本質的なギャップの存在を覆い隠しているのではないかという印象を受けました。
問題が私たちから離れたものであるばあい、おそらく表現としては、擬似的にその場を体験するか、われわれと問題とのギャップを強調するか、ふたつの手法から選択することになるでしょう。今回の展覧会は前者なのですが、それが中途半端なために、むしろ事の本質を覆い隠す結果になってしまっているように感じたわけです。展覧会の趣旨としてはもっとギャップを強調するようなものであっても良かったのではないでしょうか。
展示されているプロダクトについても少し。
展示されているプロダクトのうち、彼らが自ら工夫し、自分たちでつくりだせるタイプのものは一部です。「課題の可視化」における日本を基準とした座標軸が暗示するように、ここに展示されたプロダクトは、彼らをわれわれに近づけるための道具です。このような思想はけっして否定しませんが、途上国の発展にはさまざまな道筋が存在することも合わせて示しておく必要があろうかと思いました。
アクシス会場も見ました。
デザインハブ会場とはかなり印象が変わります。
ダイアグラムの制作は「中野デザイン事務所」だそうです。
まだAXIS会場は見ていませんが、デザインハブ会場には2回行きました。展示されているプロダクトについてはいろいろな方が感想を書かれると思いますので、ここでは違う視点からメモランダム。
展覧会の趣旨は↓のリンクをご覧ください。
世界を変えるデザイン展
東京ミッドタウンDESIGN HUB:5月15日(土)〜6月13日(日)
AXIS GALLERY:5月28日(土)〜6月13日(日)
http://exhibition.bop-design.com/
* * *
デザインハブ会場入口壁に掲げられた説明パネルがとても優れています。
visualisation
世界の課題
本展覧会の導入として、世界中に存在する様々な課題を見渡すため、
water | food | energy | health | housing | mobility | education | connectivity
の8つの課題を切り口に“世界の課題”の可視化を試みる。
とあり、続いて
process 1. 各国の人口を円の大きさで表す。
process 2. 日本を基準とした座標を設定する。
process 3. 座標上に円をマッピングする。
という手順を経て、課題別に8つのダイヤグラムが並びます。
座標のX軸は各国の平均年収。左側に行くほど高く、右側が低い。
Y軸は日本を0として、8つの課題の程度差を国別にプロットする。
諸国は人口に応じて大きさの違う円で表されており、課題を抱える人口の規模も同時に表現されている。
また、円の色は地域を表しており、8つの課題がどのような地域に集中しているのかを見ることができる。
すなわち、2次元の座標でありながら、ここでは4つの情報を同時に見渡すことができるのです。すばらしい。
ダイアグラムはこの展覧会のためのオリジナルなのでしょうか。
正しいデザインは課題の正しい把握から。この会場の見所は、どのプロダクトよりも課題を可視化したこのパネルでしょう。
* * *
他方で、ちょっと気になったのはプロダクトを展示している台とプロジェクターのスクリーンです。
展示台は木製のパレットを組み合わせたような構造。スクリーンは半透明のプラスチックを合わせた板。誤解を恐れずに云うならば、私は金持ちが貧乏人の振りをしているような印象を感じました。
入口のパネル「世界の課題」は、日本を基準として世界の課題がどのような位置づけにあるのかを示しています。多くの国は座標の右下にプロットされています。つまり、日本より平均年収が低く、水や食糧、教育等々の基本的なインフラに不自由している国々が、今回展示されているプロダクトのターゲットです。逆に言えば、それらのターゲットとなる国々を基準とすれば、日本は常にはるか左上にプロットされるのです。
私たちは、六本木ミッドタウンという最新のインテリジェントビルの展示会場で、ここには存在しない課題を解決するためのプロダクトを、高みから観賞しているわけです。私たちの周囲の環境と、展示されているプロダクトがターゲットとする世界との間には大きなギャップがあります。しかしながら、この展示台やスクリーンは、その本質的なギャップの存在を覆い隠しているのではないかという印象を受けました。
問題が私たちから離れたものであるばあい、おそらく表現としては、擬似的にその場を体験するか、われわれと問題とのギャップを強調するか、ふたつの手法から選択することになるでしょう。今回の展覧会は前者なのですが、それが中途半端なために、むしろ事の本質を覆い隠す結果になってしまっているように感じたわけです。展覧会の趣旨としてはもっとギャップを強調するようなものであっても良かったのではないでしょうか。
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展示されているプロダクトについても少し。
展示されているプロダクトのうち、彼らが自ら工夫し、自分たちでつくりだせるタイプのものは一部です。「課題の可視化」における日本を基準とした座標軸が暗示するように、ここに展示されたプロダクトは、彼らをわれわれに近づけるための道具です。このような思想はけっして否定しませんが、途上国の発展にはさまざまな道筋が存在することも合わせて示しておく必要があろうかと思いました。
* * *
アクシス会場も見ました。
デザインハブ会場とはかなり印象が変わります。
* * *
ダイアグラムの制作は「中野デザイン事務所」だそうです。
2010年5月24日月曜日
ブルータス30周年特集 ポップカルチャーの教科書
『BRUTUS』2010年6月1日号、「ブルータス30周年特集 ポップカルチャーの教科書」を購入。
お笑い、ゲーム、広告、文学、映画……。筆者は、それぞれの文化の現場に携わった人であったり、そのカルチャーの熱烈な消費者であったり。
「デザイン」の担当は柳本浩市氏で、40〜43ページの見開き4ページ。
「社会心理を読むと30年のデザインがわかる?」とのサブタイトルが付いている。
最初の見開きではタイムラインを図示するとともに、代表的なプロダクトとその簡単な解説を掲載。
次の見開きでは、同じタイムラインをテキストで叙述している。
背景には最初の見開きと同じ写真を同じ位置にモノトーンで配置。
すなわち、40〜41ページと42〜43ページは、同じ平面上、同じタイムライン上に重ねられたレイヤーとして読むことを企図しているのだ。面白い仕掛けである。物理的に可能ならば、トレペでこれを実現してみたいところだ。
お笑い、ゲーム、広告、文学、映画……。筆者は、それぞれの文化の現場に携わった人であったり、そのカルチャーの熱烈な消費者であったり。
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「デザイン」の担当は柳本浩市氏で、40〜43ページの見開き4ページ。
「社会心理を読むと30年のデザインがわかる?」とのサブタイトルが付いている。
最初の見開きではタイムラインを図示するとともに、代表的なプロダクトとその簡単な解説を掲載。
次の見開きでは、同じタイムラインをテキストで叙述している。
背景には最初の見開きと同じ写真を同じ位置にモノトーンで配置。
すなわち、40〜41ページと42〜43ページは、同じ平面上、同じタイムライン上に重ねられたレイヤーとして読むことを企図しているのだ。面白い仕掛けである。物理的に可能ならば、トレペでこれを実現してみたいところだ。
2010年5月23日日曜日
「尾崎文彦の元気 無垢の目Ⅱ」展
ポスターの絵(↑)が面白く、どのような画家なのかとても気になっていた。いわゆるアウトサイダー・アートのひとつ。
アウトサイダー・アートというと、1997年に資生堂ギンザ・アートスペースで見たヘンリー・ダーガーの作品が強烈に過ぎて、今回の展覧会と同じ會津八一記念博物館で2008年に開催された「無垢の眼I」展で優しい色彩の海を見たときにやや拍子抜けした私は偏見の塊ですね。
* * *
[尾崎文彦が]にわかに画才を噴出させるようになったのは4・5年まえからで……三沢厚彦の「ANIMALS 05」展を訪れた或る人が、作品集『ANIMALS』……を尾崎にプレゼントしたことがきっかけであったらしい。
展覧会図録、6頁。
作品に既視感を抱いたのだが、そういうことであったのか。
比べてみると、なるほど、なるほど。
尾崎の2006年の《ねこ》は、三沢の作品集に掲載されているドローイングによっているのだろうし、2007年のキリンも同じ本にのる木彫やドローイングを写したものであろう。ふつうなら、これらは、単なる自由模写とか、もっと悪く言えば剽窃と評されて、片付けられてしまうところなのだが、そうならないのは、ちょうどゴッホがミレーの絵を自身のタッチと色彩で再解釈しながら描きあげた模写のように、目からとりこまれた原作が完全に体内で消化され、画家独自の表現としてあらたに立ち上がってきているからである。
展覧会図録、6頁。
いやいや、模倣であるとか剽窃であるとかは見る者の評価であって、尾崎がオリジナリティの点で評価されることを意図していなければ、そんなことはどうでも良いのではないか。
私には尾崎文彦の作品を表現するボキャブラリーがないことがもどかしいのだが、とても良かったことは記しておきたいと思う。
作品も純粋によかったが、そのような作家、作品を探し出してくる行為、それを観賞するという行為等々、多くの問題を提起してくれるこの企画自体もすばらしい。
* * *
この展覧会図録で、山下清の作品の展覧会を初めて開催(昭和12年)したのが早稲田大学の同じ場所であることを知った。へえ。
知りたいこと:ヘンリー・ダーガーは孤独な世界に生きて、誰にも知られることなく作品と技法と独自の世界を作りあげていったが、現代の多くのアウトサイダーには見守る人や指導する人がいると思われる。作品におけるそのような人々の関わりはどのように評価されるものなのだろうか。白い画用紙ではなく、濃い色の紙に背景まできっちりとパステルで塗られた尾崎文彦の技法は作品の魅力の一部であるが、それは彼自身によって選択されたものなのだろうか。
2010年5月22日土曜日
東京都下水道局のマンホールとイチョウマーク
2010年5月21日金曜日
エイドリアン・フォーティ『欲望のオブジェ』の読まれかた
メモランダム。
A・フォーティの『欲望のオブジェ』が未だにそのような読まれかたをしていることを知って残念であると同時に、そのような理解が現実なのかと思う。
上のウェブログの筆者が求めているものが『欲望のオブジェ』にはないことは、まったくその通りである。しかし、そもそも解決策を求めて読むべき本は「デザイン思想」の本であって、「デザイン史」の本ではない。以前にも書いたが、「デザイン思想史」と「デザイン史」とはその本質がまったく別のものだ。そして『欲望のオブジェ』は「デザイン史」の本だ。本当は明確に区別されるべきものなのに、デザイン史の多くも、美大のデザイン史の授業も、現実に存在していたデザインの話をしているのか、過去のデザイナーの思想の話をしているのか、曖昧にしているからこんなことになる。
思想が思想に留まり、現実が自分を認めてくれないと嘆くことになるとすれば、それらを区別できていないからだ。現実を変えていこうとするならば、相手を知らなければならない。相手の問題を知らなければならない。「デザイン史」はデザイナーに解決策を与えるものではなく、これまでデザインがどのような問題を解決してきたのかを示し、これからどのような問題と対峙しなければならないのかを考える学問であるべきなのだ。フォーティの『欲望のオブジェ』は、そのような視点から描かれた、現状では最高の「デザイン史」の本であると思う。
と書いてみたが、「デザイン史」だって解決策は示すよな、と考え直す。ただ、『欲望のオブジェ』のようなデザイン史が示す解決策は、それまでと何が異なるのか、ということをもう少し考えてみよう。
A・フォーティの『欲望のオブジェ』が未だにそのような読まれかたをしていることを知って残念であると同時に、そのような理解が現実なのかと思う。
上のウェブログの筆者が求めているものが『欲望のオブジェ』にはないことは、まったくその通りである。しかし、そもそも解決策を求めて読むべき本は「デザイン思想」の本であって、「デザイン史」の本ではない。以前にも書いたが、「デザイン思想史」と「デザイン史」とはその本質がまったく別のものだ。そして『欲望のオブジェ』は「デザイン史」の本だ。本当は明確に区別されるべきものなのに、デザイン史の多くも、美大のデザイン史の授業も、現実に存在していたデザインの話をしているのか、過去のデザイナーの思想の話をしているのか、曖昧にしているからこんなことになる。
思想が思想に留まり、現実が自分を認めてくれないと嘆くことになるとすれば、それらを区別できていないからだ。現実を変えていこうとするならば、相手を知らなければならない。相手の問題を知らなければならない。「デザイン史」はデザイナーに解決策を与えるものではなく、これまでデザインがどのような問題を解決してきたのかを示し、これからどのような問題と対峙しなければならないのかを考える学問であるべきなのだ。フォーティの『欲望のオブジェ』は、そのような視点から描かれた、現状では最高の「デザイン史」の本であると思う。
と書いてみたが、「デザイン史」だって解決策は示すよな、と考え直す。ただ、『欲望のオブジェ』のようなデザイン史が示す解決策は、それまでと何が異なるのか、ということをもう少し考えてみよう。
N・ペヴスナーのデザイナー中心主義のデザイン史に異義を唱え、それまでのデザイン史に対して「デザイン理論がまずしいのは、デザインをアートと混同し、制作の産物を美術作品とみなしてきたことによる」と述べる。S・ギーディオンのテクノロジーと社会的価値観とによって決定づけられるとする方法論に対しても不徹底をみたフォーティは、本書でデザインとそれをとりまく社会的価値観、市場の論理、技術発展、イデオロギーなどの複雑な関係を前提として、いくつかの問題をテーマ設定し、その複雑な関係性のなかでのデザインの成立を検証する。ウェッジウッドの工場やシンガーミシンの実例とプロセスを検証しつつ、家庭、オフィス、企業それぞれのデザインとその社会文化との関わりをひもとく。本書はこれ以降のデザイン史のバイブルになっていると言ってもよい。
現代美術用語辞典|OCNアート artgene.(アートジェーン)
2010年5月17日月曜日
建築はどこにあるの?
東京国立近代美術館「建築はどこにあるの? 7つのインスタレーション」展を観た。建築はいったいどこにあるのか? また「分からないこと」が増えた。もはや「何が分からないのか」もよく分からないので、まずはそこからゆっくりと、良く考えてみよう。
展覧会サイトの「WORK IN PROGRESS」がとても良い。
完成した作品を鑑賞するだけではない。インスタレーションなのだから、プロセスも共有する。国立の美術館の催しっぽくなくていいですね。しかも、作品は展示において完成するのではなく、現場でパフォーマンスが行われたり、来場者は自由に作品の写真を撮影することができて、そればかりかFlickrには撮影した写真を投稿するグループまで設けられている。
という感じで、展示は展覧会では完結しない。建築がどこにあるのか分からないばかりか、展覧会がどこに行くのかも分からない。
2010年5月8日土曜日
森村泰昌展・なにものかへのレクイエム展
東京都写真美術館で開催されている「森村泰昌展・なにものかへのレクイエム展」を観た。以下メモランダム。
* * *
世の中に私の知らないもの、分からないことは無数にあるわけですが、じっさいには日常的にそういったものが意識に上っているわけじゃありません。で、どこかに出かけていって、ものを観たり、体験したりすることは、自分が知らないと云うことを知る、分からないと云うことを分かる作業だなぁ、と思うのです(分からなかったことが分かるようになった、という意味ではなくて、自分の無知を知るということです)。写真美術館での展覧会なのですが、いろいろ分からない。いろいろと疑問が浮かぶ。これは「写真」なのか。そもそも「写真」作品って何なのか、&c &c。
今回の展覧会は、20世紀の著名な政治家や芸術家に扮している森村泰昌氏のセルフポートレート。
誰かが誰かに扮することは、役者が芝居や映画、ドラマでふつうに行っていることだとおもうが、それとは何がちがうのか。
深川江戸資料館の前の佃煮屋さんには、ちょんまげのカツラを被ったおじさんがいて、彼はおそらく自分ではない誰かになっていると思うのだが、それとは何がちがうのか、それとも同じなのか。
森村の以前の作品——名画の中の人物に扮するとか、映画の中の女優に扮する作品——は、フィクションの再現。今回の作品は、歴史的なノンフィクション、そして男性がモチーフ。では、実在の人物に扮する行為と、虚構の人物に扮する行為とは同じことなのか、違うことなのか。
今回の作品にはスチルばかりではなく、動画もある。となれば、ますます役者との違いが分からない。映画やドラマと違うとすれば、彼は描かれたあるいは撮られた人物の人生を再現しているのではなく、描かれたあるいは撮られたその一瞬、もしくは撮られるという行為を再現しているという点だろうか。
彼はなんのためにそのようなことをするのか。扮装し、再現することで過去を追体験するのか。われわれはなんのためにそれを観るのか。オリジナルを観ることができるのに、「ニセモノ」を観ることから何を得るのか。これは「ものまね芸」として笑ってよいのか。いやいやじっさい、2階展示室の作品のひとつは、ヒトラーに扮するチャップリンに扮する森村泰昌。鉤十字の代わりに、「笑」という文字をアレンジしたシンボルをまとっている。パロディのパロディなのだから、笑ってもいいのだろう(考えてみれば、この作品のみは、フィクションの再現だ)。私は笑いながら観たが、みんなまじめな顔して観賞していたなぁ。ひょっとして笑ってはいけなかったのだろうか。
そしてつぎの作品で森村は何に扮することになるのだろう。非・人間、非・生物へとその肉体を変形させていくと面白いなぁ。たとえば20世紀の著名な建築とか、著名なプロダクト。エンパイアステートビルなんだけど、じつは森村、T型フォードなんだけど、じつは森村……。
題して物質文化へのレクイエム。だめかしらん。
* * *
表現の形式として、浅田政志の「家族写真」と類似を感じた。
* * *
追記:パロディのもたらす笑いは、オリジナルとの微妙なズレによって生じる。パロディによるそのズレはわれわれにオリジナルの姿を再確認させる。コロッケのものまねによって再び脚光を浴びるようになった美川憲一のように。森村による「ものまね」も、そのズレによってオリジナルの姿や意味に対する我々の意識を顕在化させ、ふたたびその意味を問うものと考えればよいか。まずは笑い、そしてなぜ笑えるのかを考えてみよう。
* * *
追記:宮沢章夫氏が第21回伊藤整文学賞を受賞しましたね。宮沢氏のエッセイの楽しさも、あり得べき現実とのズレにあると思います。そういう視点で再び森村泰昌の作品を見てみたいと思います。とはいえ、東京展は終わってしまったので、また次の機会を楽しみに。
2010年5月5日水曜日
水飲み場:南馬込一丁目南児童公園
2010年5月3日月曜日
2010年5月1日土曜日
経年変化?
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