2010年2月28日日曜日

500系新幹線

お祭りに行ってきました。いや、正確にいうと、参加してきました。

生憎の天気にもかかわらず、多摩川の土手には傘とカメラを手にした人びとがずらっと。


| tamagawa | feb. 2010 |

私は少し離れた橋の上から。


| tamagawa | feb. 2010 |

2010年2月23日火曜日

「方丈」秋田道夫のライフスタイル展


「方丈」秋田道夫のライフスタイル展

2010年2月11日(木・祝)〜2月21日(日)

デザイナーにとってどういう場所で仕事をするのが最適なのか。その答えは無限にあることを考えるきっかけになってもらえばと思い自分の「日常空間」を展示する事にしました。(案内ハガキより)


昨秋、青山のユトレヒトギャラリーで開催された「新東京百景―信号編」につづいて、秋田道夫氏の「展覧会」を訪ねました。

最終日の日曜日、日も暮れかかった時間です。
会場に入って、ちょっと戸惑います。前回は「信号機」という巨大なプロダクトが部屋の中央にあり、周囲には写真が貼ってあるという、モノの展覧会だったわけです。今回は全く違います。ハガキの文面にもあったとおり、「日常空間」が展示の主役です。日常空間といっても、秋田氏にとっての日常で、他の人にとっては非・日常です。

仕事場を展示する、という展示は、美術展では比較的よく見ます。なんでしょうか、その人の使っている道具、その人の作品が生まれる場には、やはりものを生み出すためのその人の哲学が現れているということなのでしょう。

あの人はどんな本を読んでいるのか。あの人はどんな店に訪れるのか。作品とか、プロダクトとかへの評価とは直接関係ないのかもしれないけれども、作品やプロダクトを知ると、逆にそういったことまで知りたくなる。想像するに、秋田氏自身そういうことへの好奇心があるのでしょう。

展示されていたのは、秋田氏が仕事で使用しているデスク、チェア、Mac、ホワイトボード、棚。
秋田氏がデザインしたステーショナリー。冷蔵庫と洗濯機。
これに加えて、加藤孝司氏による写真。

仕事場を完全に再現した、という感じでもなく、淡い青緑色の壁もあってやや冷たい感じ。加藤氏による写真を見るに、じっさいの仕事場はもっと雑然としているように思われます。デスクに置かれたノートにはカトラリのスケッチ。そしてなによりも、秋田氏のウェブログのタイトルにもなっているホワイトボードがいいですね。

秋田氏のウェブログでは、今回の展覧会に関連したエントリで「さしあたって愛用品が無いと仕事には不便だということがわかりました」(→こちら)と書かれています。ならばいっそこの場でお仕事をされてみても良かったのではないでしょうか。豊穣な作品が生み出される方丈の空間と、プロダクト・デザイナーの公開デスクワーク。そういう場面も見てみたかったです。


秋田道夫氏のウェブログ
http://www.michioakita.jp/whiteboard/

* * *

たとえば田中一光氏のデスク。回顧展での展示。

田中一光氏のデスク
『田中一光回顧展―われらデザインの時代』、朝日新聞社、2003年、34-35頁。

2010年2月22日月曜日

東京都のシンボル(16):亀の子のマンホール

日本橋
| nihonbashi | feb. 2010 |

日本橋の獅子。足下の東京都のシンボルマークを改めてみてみると、ずいぶんと六方への放射線が短いのですね。放射線の先も尖っていません。

東京都の紋章
参考画像:東京都のホームページから

JR飯田橋駅東口切符売り場前の「量水器」の亀の子が日本橋のものとかなり似ています。

亀の子のマンホール
| iidabashi | nov. 2009 |

もうどれが本来のデザインなのかよく分かりません。次に調べるべきは『東京府史』あたりでしょうか。

* * *

さて、世田谷は等々力あたりを歩いていたところ、私の地元では見かけないタイプのマンホールの意匠を見つけました。

亀の子のマンホール
| todoroki | feb. 2010 |

メインは下水道局のシンボルマークですが、それとは別に「雨」マークあるいは「汚」マークがそれぞれ亀の子の中にデザインされています。上の写真は雨水用。下は汚水用。

文字もただのゴシックではなく、オリジナルです。

汚水用。


亀の子のマンホール
| todoroki | feb. 2010 |

雨水用。


亀の子のマンホール
| todoroki | feb. 2010 |

側溝も「汚」と「雨」で分かれています。

亀の子のマンホール
| todoroki | feb. 2010 |

亀の子のマンホール
| todoroki | feb. 2010 |

亀の子のマンホール
| todoroki | feb. 2010 |

同じルートにそれぞれ隣接して設置されていますから、とうぜん中の配水管は雨水と汚水で別々なのでしょうね。

だいぶん以前に早稲田通りで同様のマンホールを見かけたことを思い出しました。汚水用です。

亀の子のマンホール
| waseda | oct. 2009 |

雨水用ならこのくらい(↓)大胆なのもすがすがしいですね。分かりやすいですし(東京都のシンボルはアレンジされてません。管轄はどこでしょう?)。

亀の子のマンホール
| waseda | oct. 2009 |

似たようなモノといえば、以前にも掲載しましたが「電」マークのマンホール。

亀の子のマンホール
| nishi-waseda | nov. 2009 |

亀の子のマンホール
| ginza | dec. 2009 |

* * *

銀座では交通局のシンボルマークが入ったマンホールを発見。

交通局のマンホール

有楽橋交差点あたりに数カ所と、

交通局のマンホール
| ginza | nov. 2009 |

交通局のマンホール
| ginza | nov. 2009 |

交通局のマンホール
| ginza | dec. 2009 |

よみうりホールの、東京国際フォーラムに面したあたりです。

交通局のマンホール
| yurakucho | nov. 2009 |

なんのためのマンホールでしょうか。

交通会館の前には、中央の点がない亀の子マークがありました。

亀の子のマンホール
| yurakucho | nov. 2009 |

亀の子のマンホール
| yurakucho | nov. 2009 |

違和感。といっても、気が付く人はほとんどいないでしょうね。

2010年2月20日土曜日

世界堂のモナリザ 03

世界堂のモナリザ
| feb. 2010 |

新宿の画材店 世界堂さんのモナリザに関する考察の3回目です。さすがにもうそれほどのネタはありません(笑)。まとめをしましょう。


1. 現在世界堂に掲示されていて、世界堂CBカードにも用いられている「アッと驚く」モナリザ像は、1974年にはすでに用いられていた(『美術手帖』への広告→「世界堂のモナリザ 02」参照)。
2. 『朝日新聞』への広告に「アッと驚く」モナリザ像が現れたのは、1978年。そのモナリザ像は、『美術手帖』のものとは異なる。
3. 『読売新聞』への広告に「アッと驚く」モナリザ像が現れたのは、1994年。「アッと驚く」ほど恐ろしいモナリザ像。
4. 同時期の『朝日新聞』への広告にも、『読売新聞』と同様の恐ろしいモナリザ像が用いられていた。ちょうど1990年に火災で焼失した本店が再オープンしたタイミングである。

* * *

1994年5月に『読売新聞』への広告に用いられた世界堂さんのモナリザ像は非常に恐ろしかった、というのが前回の調査結果です。で、同じ時期に『朝日新聞』にはどのようなモナリザ像が掲載されていたのかを調べてみたわけですが、結果は「『読売新聞』と同じ」でしたよ。

1994年4月まではこれまで通りのモナリザでした(十分恐ろしいですが)。

世界堂のモナリザ
『朝日新聞』1994年04月02日朝刊、31頁。

5月には「アッと驚く」ような姿に……。

『朝日新聞』1994年05月02日朝刊、23頁。

世界堂のモナリザ
『朝日新聞』1994年06月01日朝刊、31頁。

写真製版ではなく、ペンで描いてスクリーントーンを貼ったような表現ですな。

世界堂のモナリザ
『朝日新聞』1994年07月01日朝刊、35頁。

この激しく「アッと驚く」モナリザが新聞広告に用いられた1994年は、ちょうど現在の世界堂ビルが「グランドオープン」した年です。オープンに合わせて広告の画像も新調したのでしょうか。インパクト強すぎます。

そして、8月になって可愛いモナリザ像に変わります。

世界堂のモナリザ
『朝日新聞』1994年08月01日朝刊、27頁。

読売新聞への広告(→世界堂のモナリザ 02)と比べてみてください。広告枠のサイズが異なるので、レイアウトやトリミングは異なっています。

* * *

同じ時期に『美術手帖』への広告はどうなっていたかというと、1974年から変わらず可愛いモナリザ像が用いられていました。1974年と異なるのは画像がモノクロからカラーになったことぐらいでしょうか。

下は、1995年の『美術手帖』への広告。モナリザが左右反転しています。

世界堂のモナリザ
『美術手帖』1995年4月。

左頁に来るときは右向き、というルールがありそうです。

* * *

以前から用いられていたモナリザ像がありながら、なぜ世界堂さんは新聞広告にかくも恐ろしいモナリザ像を用いたのでしょうか。こればかりは関係者にインタビューしてみなければわかりません。ただ『朝日新聞』への広告のあのモナリザ像が私たちに強烈なインパクトを与え、世界堂を訪れたことがない人びとにまでも「世界堂」=「アッと驚くモナリザ」のイメージを作りあげたことは間違いありません。

* * *

世界堂ビル
| shinjuku | feb. 2010 |

意外と大きい世界堂ビル。
店舗は5階までなので、他は貸事務所でしょうか。

2010年2月16日火曜日

世界堂のモナリザ 02

地下鉄の中。
向かいの席の女子大生が読んでいる日経新聞にモナリザを発見。


モナリザ

山口真美「だましの名画 十選 1」
『日本経済新聞』、2010年02月15日朝刊、36頁。

「モナ・リザ」の最大の魅力は謎の微笑とも言われる。微笑みの先にある視線の行方も、謎の一つだろう。
「モナ・リザ」は、どこから見ても視線が合う。逆に言えば、絵を目の前にしてあちこち逃げ回っても、視線から逃れることはできない。……


で、新宿の画材店 世界堂の広告におけるモナリザの歴史のつづきです。


今回のテーマは、

世界堂の広告にモナリザが登場したのはいつ?

『朝日新聞』、『読売新聞』、そして『美術手帖』のバックナンバーを見てみました。前回は少しクリップしただけでしたが、今回はいろいろと面白いことが分かりましたよ。

最大の発見は、「可愛くなった」と思っていたモナリザがすでに1974年には存在していたことと、媒体によってモナリザ登場の時期と姿が異なっていた、ということです。衝撃画像(?)あり。新聞縮刷版をめくっていて思わず吹いてしまいました。まわりに誰もいなくて良かった。

* * *

朝日新聞から行きましょう。朝日への広告に最初に「モナリザ」が登場するのは1978年11月1日です。その前、同年10月は「修復」の広告、同9月は謎の女性像です。

世界堂の広告
『朝日新聞』1978年09月04日朝刊、23頁。

世界堂の広告
『朝日新聞』1978年10月02日朝刊、23頁。

そしてモナリザ初登場。このときのモナリザは左側を向いていました。

世界堂のモナリザ
『朝日新聞』1978年11月01日朝刊、23頁。

その後の右向き画像は写真を反転したものでしょうか。

1989年、迎春バージョン。「アッと驚く」が抜けています。

世界堂のモナリザ
『朝日新聞』1989年01月01日朝刊、31頁。

1991年、賀正バージョン。

世界堂のモナリザ
『朝日新聞』1991年01月01日朝刊、31頁。

読売新聞への広告にモナリザが登場するのはずっと後、1994年ですので、「世界堂」=「アッと驚くモナリザ」というわたしたちのイメージは朝日新聞によって作られた、ということになりましょうか。

ところで、これらのモナリザには「視線が常にこちらを向いている」というモナリザの特徴がないのですね。

* * *

次に読売新聞です。読売新聞への広告にモナリザが登場するのは1994年5月1日。朝日に遅れること16年です。それまでは謎の女性像と「修復」広告です。そして驚いたことに、そこには朝日新聞への広告とは異なる「アッと驚く」ようなモナリザの姿がありました。

世界堂のモナリザ
『読売新聞』1994年05月01日朝刊、23頁。

どうですか。
こっち見てますよ。
あなたはこの視線から逃れることができますか。

つづく6月の広告。

世界堂のモナリザ
『読売新聞』1994年06月01日朝刊、31頁。

…………。

同年7月にも同じモナリザの広告。

世界堂のモナリザ
『読売新聞』1994年07月01日朝刊、35頁。

さすがにこれはイカンと思ったのでしょうか(想像)、1994年8月1日にはずっと可愛いモナリザの半身像に変わりました。

世界堂のモナリザ
『読売新聞』1994年08月01日朝刊、31頁。

その後は、このバージョンが続いたようです。そういえば、このモナリザ像は1995年の朝日新聞への広告でも用いられていました(世界堂のモナリザ 01 参照)。ですので、このあたりの変化をもう少し調べてみる必要がありそうです(笑)。

* * *

図書館に行ったついでですから、『美術手帖』のバックナンバーも調べてみました。で、ありました。『美術手帖』に最初にモナリザを用いた広告が出されたのは、1974年3月です。朝日新聞への広告よりも4年早いですね。そしてこれまた驚いたことに、額縁に入ったモナリザの半身像は現在世界堂さんに掲出されているモナリザ像とほぼ同一だったのです。

1974年3月のモナリザ。

世界堂のモナリザ
『美術手帖』1974年3月号。

参考画像(店頭で配布しているカードから)。

世界堂のモナリザ

約20年後、1993年のモナリザも変わりません。

世界堂のモナリザ
『美術手帖』1993年12月号。

というわけで、べつに世界堂のモナリザは最近リファインされたというわけでもなかった、ということになります。へえ。

なお、世界堂さんは『美術手帖』に3ページの広告を出していますが、1ページ目の背景には過去の新聞広告の切り抜きが用いられています。

世界堂の広告
『美術手帖』1974年3月号。

このウェブログで取り上げた以外にもいろいろなバージョンの広告がありそうですね。世界堂さんに聞けばもっと詳しいことが分かるかもしれませんが、まあそこまでは……(それに1990年の火災で過去の資料が焼失してしまったかもしれません)。

つづきます。


調査の方法と範囲:朝日新新聞記事データベースでは戦後の広告を検索できません。また、読売新聞データベースでは広告を検索できるのは1986年までです。このため、調査は手動です(涙)。読売新聞記事データベースでの予備調査で、世界堂さんは毎月月初め、社会面最終ページに広告を出しているらしい、とのあたりを付けましたので、朝日・読売とも縮刷版の月初めのみを見ています。それ以外にも広告が掲出されている可能性は否定できませんが、膨大なページ数になるため、とても手が付けられません。なにぶん趣味ですのでそれ以上のことはご容赦。

2010年2月8日月曜日

ヘンリー・ペトロスキー『フォークの歯はなぜ四本になったか』:形態は失敗にしたがうのか?

私が最初に『フォークの歯はなぜ四本になったか』を読んだのは、おそらく1996年。邦訳の刊行が1995年11月なので、まだ出たばかりの頃です。ながらく欠本になっていたようですが、今年1月に平凡社ライブラリー版で再刊されました。新たに追加された棚橋弘季氏による解説を読みたかったこともあり、早速購入。


人間が加工してつくる道具やモノ、その形は、どうやって進化してきたのか―この問いに、要求される機能に沿って、と答えるのでは不十分。実用品の変化は、それが出来ることではなく、出来なかったこと、不具合や失敗の線を軸に歴史を刻んできた―デザインと技術の歴史に豊富な事例をもって新しい視点を据えつけ、“失敗”からのモノづくりを教える著者の代表作。

今日の平凡社/ 『フォークの歯はなぜ四本になったか』


ペトロスキーの歴史の見方——形態は失敗にしたがう——に私自身は同意しませんが、それでも本書は読む価値のある素晴らしい研究書です。

* * *

本書の価値の第一は、取り上げられている事例の豊富さとその深さとにあります。邦訳タイトルにある「フォーク」なぞ、どちらかといえばホンのさわりです。例えば「ピン」。

アダム・スミスが『国富論』において分業のもたらす経済的利益の説明として挙げたピン製造の事例は有名でしょう。しかし、そのピンとは何なのか、どのような用途に用いられていたのかについて知っている人はどれほどいるでしょうか。「第四章 ピンからペーパークリップへ」ではその用途から製造法の変化にいたるまで詳細に描かれています。クリップやステープラーが発明される以前、ピンは主に紙を綴じるために用いられていたのです。

私は以前イギリスの文書館でピンで綴じられた資料に遭遇したことがあります。


| liverpool record office | jun. 2002 |

ああ、これがスミスが『国富論』で論じ、ペトロスキーが『フォークの歯は……』で述べていたピンなのか、と感動しましたよ。本書を読んでなければ目に留まることもなかったでしょうね。

そのときに私が利用した一連の文書(1920年代のもの)には、ピンの他にゼムクリップ、


| liverpool record office | jun. 2002 |

割ピン、


| liverpool record office | jun. 2002 |

綴紐が用いられていました。


| liverpool record office | jun. 2002 |

(もしかすると後の時代に付けられたものかも知れませんが……)

文書を綴じるという目的にとって、ピンには欠点があったとペトロスキーは述べます。

事務用書類をピンで留めるうえでの欠点がひとつあった。見苦しい――しばしば錆で縁どりされた――穴が残ってしまうのである。これがとくに悩みの種になったのは、紙を綴じ、はずし、また綴じるという行為が何年ものあいだに繰りかえされる場合だった。ピンで留められた書類の角は、かなり傷みが激しくなる。(109頁)

こんな↓感じですかね。


| liverpool record office | jun. 2002 |

ピンで留めた書類は、それを扱う人の指に刺し傷を生じさせるという欠点もありました。それらの欠点を解決する代替物として現れたのがペーパークリップ。そのひとつが現在でも一般的に用いられているゼムクリップだったというわけです。

フォークの歯を別とすると、ペトロスキーが取り上げているのはゼムクリップ、ポスト・イット、ステープラー、ファスナー、ノコギリやハンマー、カトラリー、缶詰と缶切り、マクドナルドのパッケージ、等々19世紀半ばから20世紀の事例です。これら多様なモノのカタチの歴史的変遷の過程がユーモアのある文体で語られ、飽きることなく読むことができる本です。

* * *

多様な事例によってペトロスキーが論じるのは、「形態は失敗にしたがう(Form Follows Failure)」という考えです。

人工物を次から次へ調べていけばはっきりとわかるように、どの時代のどんなモノにも見つかる欠点を継続的に識別し排除することによって、そのモノの形は決まったり修正されたりするのである。(97頁)

「形態は失敗にしたがう」は「形態は機能にしたがう」を踏まえた表現でしょう。ペトロスキーは本書を機能主義的デザイン史観への疑問とその論証としています。

かならずしも形が機能にしたがうとはかぎらないのならば、いったいどんなメカニズムで、われわれの人工的な世界の形は決まるのか?
……
この広範な論考は、デザインに関する定説「形は機能に従う(Form Follows Function)」への論駁として読まれるかもしれないが、モノ自体の研究にとどまらず、発明およびデザインという、しばしば言語に絶する創造的な過程の根源にまで考察を進めることになっている。(6頁)

ペトロスキーの論拠は、主に特許資料です。モノの変遷の理由をそのような資料の中に見ることで、彼は新しいモノの出現が以前のモノの欠点の改善として現れてきていることを示します。しかし、それだけでは現実に存在するモノの多様性は上手く説明できません。そこで彼が援用するのはデーヴィッド・パイの考え――欠点のないモノはない――です(D・パイ『デザインとはどういうものか』美術出版社、1967年)。先行するモノの欠点に対する改善策は一様ではない。またある種の改善はしばしば新たに別の問題を引き起こす。多様な問題と多様な改善策がモノのカタチの多様性を生み出しているとするのです。

* * *

棚橋弘季氏は、本書の解説でペトロスキーが見逃した点を指摘しています。それは「『失敗こそがモノの形を生み出す』発明やデザインという活動それ自体が、人類の歴史においてはじめから存在していたのではなく、ある時期に発明されたものである」という点です。イギリスにおけるフォークの導入がだいたい17世紀。その時期はヨーロッパの地域によって異なりますが、「実はそれぞれの国でのフォークの登場の年代は、それぞれの国でルネサンスの思想や文化が花開いた時代に対応している」のであり、「発明やデザインの方法そのものがその時、発明されたのだと考えてよい」(441-444頁)のです。

参考
フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論/ヘンリー・ペトロスキー:DESIGN IT! w/LOVE
http://gitanez.seesaa.net/article/137535522.html

同様の指摘は、イギリス産業革命の要因を探るR・C・アレンの近著でも読みました。つまり実験精神とか、試行錯誤という行為は、決して古いものではなく、普遍的な文化でもないのです(Robert C. Allen, The British Industrial Revolution in Global Perspective, Cambridge, 2009)

ペトロスキーは、

ナイフ、フォーク、スプーンのようなおなじみのモノを形づくったのとまったく同じ意図的な営みが『石器からマクロチップにいたる』あらゆるテクノロジーの産物を形づくった(64頁)

と書いていることからも、「失敗にしたがう」デザインの展開はいつの時代にも適用できると考えているようです。しかし、棚橋氏の指摘をふまえるとこれはどの時代にもあてはまるものではありません。形態の決定を司る普遍的な理論ではありえないのです。

* * *

冒頭にも書きましたとおり、私自身はデザインの歴史的展開についてのペトロスキーの考えには同意しません。その最大の理由は、彼が対象としているデザインの範囲にあります。

外見や形状は本書の基本的なテーマであるが、モノの美的な特質はそこに含まれない。……宝石や芸術品などのはっきりした例外は別として、美的な問題がモノの形を決める第一の要因になることはめったにない。……チェスの駒も、必要条件が確立されて久しいセットのもう一つの例である。……チェスのセットをデザインあるいは「デザイン変更[リデザイン]」することは、駒の重さやバランスといった副次的な事柄の考慮を伴うかもしれないが、たいていの場合、美的な問題と見なされる。そして美的価値という名目で、多くのチェス・セットは、単に風変わりなだけだとは言わないまでも、見た目がよりモダンに、あるいはより抽象的になってきており、プレイヤーがクイーンとキング、ナイトとビショップを見分けるのに難儀することなどお構いなしである。そんなデザインの遊びは、本書ではほとんどとりあげない。(65-66頁)

ペトロスキーの議論は対象を限定することによって、世界中のモノのデザインの由来の99%(俺推定)を無視しているのです。いったいどのようにしてモノのカタチから美的特質と機能的特徴を切り分けるのでしょうか。「そんなデザインの遊びは、本書ではほとんどとりあげない」というバイアスによって選択された事例は、それゆえにペトロスキーが「進化」と呼ぶところの変化に限定されています。「形態は失敗にしたがう」という結論は、そうなるように限定された範囲の事例から導かれた必然なのではないでしょうか。

もうひとつ。原著のタイトルは「実用品の進化論 The Evolution of Useful Things」です(邦訳では副題になっています)。発明なりデザインなりは先行する技術・形態のもつ不完全さへの対応として現れるという展開を、彼は進化のアナロジーとして考えているようです。すなわち、デザイナーは自由な意思によってある日突然なにかを生み出すのではなく、彼らが作るモノには過去のモノとの連続性があるということ。そしてその連続性のありようが、進化論でいうところの適者生存の原理に類似しているという考えが背景にあります。これに対しては、A・フォーティの見解を示しておきましょう。

デザイン史家はしばしば、さまざまな変化をまるで製造物が植物や動物であるかのように、なにか進化のプロセスのようなもののせいにすることによってこの問題[=デザインの多様性の理由]を回避しようとしてきた。デザインの変化が、あたかもそれらが製造物の発達における突然変異、申し分のない形態へ向かう漸進的進化の段階であるかのように記述されるというわけだ。だが、人工物は生命をもっているわけではないし、それらを進歩の方向へ進ませる自然的もしくは機械的淘汰の法則があるという証拠もない。製造物のデザインは、内的な遺伝学的構造といったものによってではなく、それらをつくるひとびとおよび産業によって、そしてこうしたひとびとおよび産業と、製品が売られる社会との関係によって、決まってくるのである。(A. フォーティ『欲望のオブジェ』鹿島出版会、1992年、10頁)

「申し分のない形態へ向かう漸進的進化の段階」という表現は、まさしくペトロスキーがいうところの「形態は失敗にしたがう」プロセスですね。ペトロスキーは機能主義批判においてフォーティの言葉を引用していますが(50-53頁)、「進化」論に対するフォーティの批判をどのように考えているのか示していないところが残念ですし、本書における「進化」の概念はいまひとつ明瞭ではありません。

また、本書においてペトロスキーは機能主義的デザイン史観に反証しているように思われます。じっさい、ペトロスキーが挙げた諸事例は「この議論の行き着くところは、用途が同じならすべて同じものであるべきだ、ということになってしまう」(フォーティ、17頁)という批判に応えています。しかし、彼の主張は機能を実現させる完璧な形は存在しないという点にあり、他方で多様な製品はそれぞれ機能を指向して「進化」しているのです。それゆえ、彼のデザイン史観は機能主義の修正版と捉えるべきではないでしょうか。

本書に対しては他にも多くの疑問点がありますが、個々の事例には興味が尽きませんし、またデザインの方法論のひとつとして読む分には大いに参考になります。

* * *

背表紙の著者名はふつうに縦組みにならなかったのでしょうか。



え?ペトロスキー?